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宮本武蔵に関するkotobukuのブックマーク (9)

  • 「剣禅一如」の近代的利用 - 熊田一雄の日記

    結城令聞「剣禅一如ー沢庵和尚の教え」(大東出版社、2001年)を読みました。結城令聞氏(1902-1992)は、東京大学名誉教授(印度哲学専攻)で、唯識研究で知られる学者です。沢庵(1573-1646)は、臨済宗の僧侶でした。このは、沢庵和尚原意・由希令聞著「剣禅一如」(大東出版社、1940年)の復刻版で、仏教的な(?)ー正確には「仏教もどきの」でしょうー「万理一空」の教えを説いた「剣聖・宮武蔵」を称揚し、それと同時に儒教的な「臣民の尽忠」の教えを説く、これぞ総力戦体制下の御用学問、というです。結城さんが存命であれば、「恥ずかしい過去」として復刻を許可しなかったと思います。おそらく遺族が許可したのでしょう。 現代日における、「宮武蔵」を主人公にした井上雄彦のマンガ「バガボンド」の大ヒットといい、日における「剣禅一如」の伝統は、近代社会において、第二次世界大戦のような現実の戦争

    「剣禅一如」の近代的利用 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    日本における「剣禅一如」の伝統は、近代社会において、第二次世界大戦のような現実の戦争にせよ、現代の厳しい経済的な競争にせよ、「心の痛みを感じることなく、効率よく競争相手に打ち勝つ」ために利用される
  • 押井守の「宮本武蔵」 - 熊田一雄の日記

    原案・脚: 押井守(原作: Production I.G、監督:西久保瑞穂)による歴史アニメドキュメンタリー『宮武蔵ー双剣に馳せる夢ー』(DVD、ポニーキャニオン、2010年)を見ました。アニメ作品としては失敗作だと思います。しかし、押井守による、「立身出世」して「兵法家」となり「関ヶ原の合戦に雪辱すること」を生涯の目標として生きた「徹底した合理主義者」という宮武蔵解釈は、面白かったです。「自己完成のための殺人」を繰り返す「精神主義者」という、安岡正篤=吉川英治による「総力戦=システム化社会」における宮武蔵解釈(拙著「男らしさという病?」参照)よりは、現代人にとって説得的な解釈です。 押井守は、井上雄彦の大ヒット中のマンガ「バガボンド」の精神主義的・求道者的な宮武蔵解釈とそれが支えている「覇権的男性性」(「男の中の男」のイメージ)とに異を唱えたくて、この失敗作をあえて世に問うたの

    押井守の「宮本武蔵」 - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/15
    押井守による、「立身出生」して「兵法家」となり「関ヶ原の合戦に雪辱すること」を生涯の目標として生きた「徹底した合理主義者」という宮本武蔵解釈
  • 旧日本軍と多重人格 - 熊田一雄の日記

    世界の多くの地域で、過去には、子供が大人の社会に加入する際(イニシエーション)、性的・身体的な虐待(肛門性交、切除、および殴打などその他の虐待)を含む残酷な儀式がかかわっていた。そのような儀式の効果(あるいは意図でさえも)は、成人に多重人格障害への傾向をつくりだすことなのだろうか。人格を分裂させる能力が積極的な利益をもたらす(あるいはそう考えられていた)ような状況ーたとえば、身体的または社会的な苦難に対処しなければならなくなるときーはあるのだろうか。多重人格はすぐれた戦士をつくるのだろうか(ニコラス・ハンスリー「自己について語るー多重人格障害の評価」『喪失と獲得ー進化心理学から見た心と体』紀伊国屋書店、2004年(原著2002年)、p.70)。 日軍は、戦争神経症を天皇の軍隊にあるまじきこととし、もっぱら「シュラークテラピー」(殴打療法)を行っていた。その治療像は、上級者にへつらい、下級

    旧日本軍と多重人格 - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/15
    多重人格はすぐれた戦士をつくるのだろうか
  • 宮本武蔵と<解離> - 熊田一雄の日記

    スタインバーグ(Steinberg,M.)は、症候論的にみた解離現象を、五つの中核症状に分けている。すなわち、1 健忘、2 離人症、3 現実感喪失、4 同一性混乱、5 同一性変容、である。解離による健忘は、自分自身の個人情報についての記憶の想起障害であり、器質性疾患のとは違って、一般的知識や日常の動作が障害されることはない。また、DSM-4(精神障害の診断と統計の手引き (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)第4版)の定義では離人症は「自分が自分の精神過程または身体から離れて外部の観察者になったかのような自己の知覚または体験の変化」で、現実感喪失は「外部世界の知覚または体験が変化して、それが奇妙に、また非現実的に見えること」である。同一性の混乱と変容について、彼女はそれぞれ「自我同一性や自己意識に関する不確実、困惑、葛

    宮本武蔵と<解離> - 熊田一雄の日記
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    kotobuku 2010/08/15
    「乾坤を其侭庭にに見る時は/我は天地の外にこそ住め」は、DSM-4でいう「離人症」の感覚を詠んだものではないでしょうか。
  • <武蔵的人格美学>の発見と変容(2) - 熊田一雄の日記

    私は第一部で武蔵は、眼の前に何か困難な状況が横たわり、それに向って、大衆が突き進まなければならない時、読まれ、或いは、読み変えられてきた、と書いた。その時とは、戦中、戦後、そして今である。武蔵はその三つの時期において時代の精神の象徴と成り得たのである。武蔵が、唯一、時代の象徴とならなかった時代はいつか、といえば、それは高度経済成長期からバブル全盛期である、ではその時期、時代の象徴となり得た人物は誰か。それは、坂龍馬であり、織田信長であった。そして、この二人と武蔵の違いを記せば、それは一目瞭然ー龍馬と信長は組織のリーダー足り得るが、武蔵はなり得ない、ということであろう。 (中略) そして、今、その管理社会ももはや遠く、バブル崩壊後の草木も生えぬ有様の中、既成の価値観が崩壊し、暗中模索で歩を進めねばならぬ時代に、剣一筋で己の人生を切り開く武蔵の生き方が「うらやましい」、つまりは、一つの希望と

    <武蔵的人格美学>の発見と変容(2) - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    管理社会ももはや遠く、バブル崩壊後の草木も生えぬ有様の中、既成の価値観が崩壊し、暗中模索で歩を進めねばならぬ時代に剣一筋で己の人生を切り開く武蔵の生き方が「うらやましい」、つまりは一つの希望として復活
  • バカボンドについて - 熊田一雄の日記

    井上雄彦が吉川英治の原作小説『宮武蔵』をマンガ化したバガボンド(1999-)について、映画評論家の佐藤忠男による「自己完成のための殺人」を説く「不毛な人格美学」という批判はあてはまらないと思います。井上雄彦は、吉川英治の原作をアレンジして、武蔵に「殺し合いの螺旋から/俺は降りる」(第30巻)ことを考えさせているからです。 「自己中心性」と「視野狭窄」を伴う「意地」とは、「非常事態を強行突破するための構え」であり、「来無冠の弱者にのみ許される」(中井久夫・佐竹洋人(編)『意地の心理』1987年、創元社、p.286)ものです。バブル崩壊後の経済状況にあって、社会的弱者たる若者たちは、「生き延びる」ためには「意地」を張る必要があったのでしょう。

    バカボンドについて - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    井上雄彦は、吉川英治の原作をアレンジして、武蔵に「殺し合いの螺旋から/俺は降りる」(第30巻)ことを考えさせている
  • 『宮本武蔵』と意地の美学 - 熊田一雄の日記

    意地とは、自分に引け目を感じていながら、その引け目でもって自分自身がほんとうにダメになってしまわないよう、せいいっぱいの虚勢をはることだ、というふうにも定義し直せるかもしれない。 繰り返し映画化されてやまない吉川英治原作の『宮武蔵』はとくに内田吐夢監督、中村錦之助主演版の六〇年代の五部作がじつに面白いと思うのだが、見ていてふっと、しかし剣道の修行だといってやたらと人を殺すのはどういうわけだろう、まるで殺人鬼ではないか、おまけにそれが精神の鍛錬にもなるとは、なんという非人間的な思想だろう、と、そんな映画に興奮している自分自身にまで疑問をもつことがある。しかし考えてみると、宮武蔵という男は、少年のときに関ヶ原の合戦に参加して敗残兵となっていらい、もう、いくら武術を磨いても実際の役には立たない戦争のない時代にほおり出されてしまっているのである。しかし彼は、自分には武術しか取り柄がないと思って

    『宮本武蔵』と意地の美学 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    宮本武蔵という男のすさまじい闘志も、実は自分は無用の存在ではないかという不安感や引け目をふりはらい、つきぬけるための、がむしゃらさ、として理解できる
  • 混血児としての『宮本武蔵』 - 熊田一雄の日記

    騎士道物語にも比すべき武勇秀でたヒーローの旅の物語として、昭和になってからの日で書かれた最大の作品は、吉川英治の大河小説『宮武蔵』であろう。何度となく大長編の映画としてつくられたこの物語は、武勇の物語であると同時にまた、貴婦人崇拝の要素も含んでいて、日的であると同時にヨーロッパ的であり、混血児的である。宮武蔵は諸国遍歴の武芸者であるが、心の恋人にお通さんという女性の面影を抱いていて、日夜、彼女への愛に心をかきむしられながら旅を続けるのだ。そんなに好きなら結婚してしまえばいいのに、結婚などしたら武者修行はできない、と言って旅を続ける(佐藤忠男『意地の美学-時代劇映画大全-』じゃこめてい出版、2009年、p.94)。 *「一つのことに打ち込むのに恋愛は邪魔である」という『宮武蔵』的命題が、『バガボンド』にも踏襲されるのかどうか、間もなくわかるでしょう。ちなみに、高橋留美子(作)のボク

    混血児としての『宮本武蔵』 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    武勇の物語であると同時にまた、貴婦人崇拝の要素も含んでいて、日本的であると同時にヨーロッパ的であり、混血児的である。
  • <自己完成のための殺人>の発見と変容ー『宮本武蔵』をめぐってー - 熊田一雄の日記

    『愛知学院大学人間文化研究所紀要』25号原稿(2010年9月刊行) <題名><自己完成のための殺人>の発見と変容−『宮武蔵』をめぐってー <著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授) <Title>The Discovery and Transformation of <Murder for Self-completion>:About“Miyamoto Musashi” <Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor of Department of Religious Culture) <要旨> 稿の目的は、近代日の大衆文学のキャノンである吉川英治の小説『宮武蔵』(1935-1939)を文化社会学的に考察することにある。まず、『吉川武蔵』に見られる「自己完成のための殺人」という「不毛な人格美学」に対する佐藤忠男による批判を紹介し、吉川武蔵の説く「大衆

    <自己完成のための殺人>の発見と変容ー『宮本武蔵』をめぐってー - 熊田一雄の日記
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