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ブックマーク / kkumata.hatenablog.com (47)

  • 「待つ」という宗教心理ー疑いと信仰の間 - 熊田一雄の日記

    年代順に配列しました。超越者を「待つ」状態とは、「半信半疑だが、できれば信じたい」、W・ジェイムズの古典的表現を借りれば「潜在意識的自己」(W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相(下)』岩波文庫、1970年(原文1901ー1902年)、p.376)の水準では信じている、という宗教心理のことでしょう。 ー(生まれて、すみません)(太宰治『二十世紀旗手』初出1937年、エピグラフ) ー私は愛といふ単一神を信じたく内心つとめてゐた(太宰治『満願』初出1938年) ー私を忘れないでくださいませ。毎日、毎日、駅へお迎へに行つては、むなしく家へ帰って来る二十の娘を笑はずに、どうか覚えて置いて下さいませ。その小さい駅の名は、わざとお教え申しません。お教へせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける(太宰治『待つ』執筆1942年)。 ー他の点ではすべて健康で可愛らしく感情も豊かでありながら、しかし「僕(わたし) I」

    「待つ」という宗教心理ー疑いと信仰の間 - 熊田一雄の日記
  • 「剣禅一如」の近代的利用 - 熊田一雄の日記

    結城令聞「剣禅一如ー沢庵和尚の教え」(大東出版社、2001年)を読みました。結城令聞氏(1902-1992)は、東京大学名誉教授(印度哲学専攻)で、唯識研究で知られる学者です。沢庵(1573-1646)は、臨済宗の僧侶でした。このは、沢庵和尚原意・由希令聞著「剣禅一如」(大東出版社、1940年)の復刻版で、仏教的な(?)ー正確には「仏教もどきの」でしょうー「万理一空」の教えを説いた「剣聖・宮武蔵」を称揚し、それと同時に儒教的な「臣民の尽忠」の教えを説く、これぞ総力戦体制下の御用学問、というです。結城さんが存命であれば、「恥ずかしい過去」として復刻を許可しなかったと思います。おそらく遺族が許可したのでしょう。 現代日における、「宮武蔵」を主人公にした井上雄彦のマンガ「バガボンド」の大ヒットといい、日における「剣禅一如」の伝統は、近代社会において、第二次世界大戦のような現実の戦争

    「剣禅一如」の近代的利用 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    日本における「剣禅一如」の伝統は、近代社会において、第二次世界大戦のような現実の戦争にせよ、現代の厳しい経済的な競争にせよ、「心の痛みを感じることなく、効率よく競争相手に打ち勝つ」ために利用される
  • 初期新宗教と<原罪感覚> - 熊田一雄の日記

    (前略)けれども、かつて父祖たちが門口に物乞いが立つと施しをしないでおかれなかった気持のなかには、ある種の原罪感覚があったのではなかろうか。 生まれ育った村のなかに無事に今日あるのは、神仏の恩寵そのものであり、そのために隣人を見殺しにするなど、われ知らずに犯した罪はどれほどあるかわからないと、そういう意識はおそらくすべての村人に共通していたのではなかろうか。それほどに飢饉のときの記憶はなまなましく、悔恨にみちたものであった。ようやく平穏をとりもどした日に、物を粗末にすると目が潰れるといって子どもを戒め、少しでも余裕があれば物乞いに施し、災害の日とはうって変わって善根を積もうとしたのも理由のあることであった。昔からの門付けの物乞いが近代社会のルンペンとちがい、つねになんらかの意味で宗教的流民の形をとっていたのはこのためである。彼らへの施しとは、字義どおり贖罪のための喜捨であったといえよう(

    初期新宗教と<原罪感覚> - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    第二次世界大戦後20-30年間の、日本の新宗教の爆発的な成長は、「戦死者に対する<原罪感覚>」と無関係ではないでしょう。
  • 日本の宗教伝統と<暴力> - 熊田一雄の日記

    特殊にして具体的なる人倫的組織が絶対視されると、それを擁護し発展させることが絶対的意義をもつようになる。したがって自己の所属する人倫的組織の存立がおびやかされる場合には、武力をもってでもそれを守ろうとする。(中略) 日人の尚武の気風は、一部の禅者が弟子を鍛えるにあたって機鋒峻烈であった事実にも認められる。(中略) こういうわけで、日では仏教が特に禅を通じて剣道の精神的根拠を与えることになった。(中略) ここでは戦いにおける殺生の行為が仏教に基礎づけられている。仏教が、戦いにおいて生かされるということをめざしたのは、おそらく日仏教にのみ見られることであろう(中村元『東洋人の思惟方法3』春秋社、1962年;pp.224-232、「力による人倫的組織の擁護」より)。 オウム真理教事件の問題は、おそらくここまで掘り下げて考察する必要があるでしょう。

    日本の宗教伝統と<暴力> - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    戦いにおける殺生の行為が仏教に基礎づけられている。仏教が、戦いにおいて生かされるということをめざしたのは、おそらく日本仏教にのみ見られることであろう(中村元『東洋人の思惟方法3』
  • 宗教者が最大の薬 - 熊田一雄の日記

    (前略)私も学生時代がちょうど抗生物質が入ってきたころですから、抗生物質以前のドクターというのはよくあれであんなに尊敬されてちゃんと信用があったのはおかしいなと思っていたのですがやはりそこはその理由があったわけですね。 幾つかの理由があると思うんで好かれども、一つはやはり肺炎一人治したら名医だと言われたそうですけれども、とにかく医者は患者のそばにいてくれたわけです。往診して一緒に徹夜してカラシを塗れとか何とか言ったわけです。あれで肺の炎症を外におびき出すということがどれだけ科学的根拠があるかどうかわかりませんがとにかく一晩ついていてくれた、それは非常に病人には他にかえがたい一つの処方だったと思います。やはり病気という苦しい過程、特に患者の孤独なところをとにかく医者がそばにいてくれるということ、医者というのは最大の薬のひとつだということ、まず医者を処方しなければならないということを私のクラブ

    宗教者が最大の薬 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    「医療崩壊」が言われる現代日本においては、1.病人が孤独なところをとにかくそばにいてくれる、2.我が身の危険を顧みず病人から逃げない、という前近代の医者の役割はむしろ宗教者が担うべきではないでしょうか
  • <掟の門>または個人化した宗教 - 熊田一雄の日記

    ・・・彼は門を通る人ではなかった。又門を通らずに済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった(夏目漱石『門』初出1910年)。 「誰もが掟を求めているというのにー」 と男は言った。 「この長い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」 いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識をよびもどすかのように門番がどなった。 「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」(フランツ・カフカ『掟の門』初出1914年) *100年前にこんなことを考えていたなんて、漱石もそうですが、カフカはつくづくすごい作家です。

    <掟の門>または個人化した宗教 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    100年前にこんなことを考えていたなんて、漱石もそうですが、カフカはつくづくすごい作家です。
  • 精神医療と宗教的身体観 - 熊田一雄の日記

    身体は神様から借りているもの、という見方について考えてみます。どういうことかというと、患者さんの中には時々自らの体を荒らす人がいる。自傷行為に象徴されますが、リストカットをしたり、大量服薬をしたり。自暴自棄になってそうしてしまうことが多いかれど、そもそも自分の身体は自分の判断でいかようにも扱えるという驕りがあるからだと思います。 そうではなくて、身体というものについてより謙虚になれないものかという意味を込めた見方です。医師だけではなく、患者さんもその身体をいつくしむべきではないか。 身体は神様から借りてきたものだから、汚してボロボロにして返しては駄目なんだと。返す時は、借りてきたものをきれいにしてから返す必要があるんだと表現することで、自分をいたずらに痛めつけることから解放されるのではないか、というふうに考えています(熊木徹夫『君も精神科医にならないか』筑摩書房、2009年;pp.72-7

    精神医療と宗教的身体観 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    そもそも自分の身体は自分の判断でいかようにも扱えるという驕りがある
  • ゲリオン化する身体/再人間化する身体 - 熊田一雄の日記

    (1)さっき私申しましたのは、あれは一端ですけど、女性のほうは思春期を通過する時ステレオタイプな女性の像を描きますね。男性はあれ描けないですね。描くものがない。せいぜい武器ですね。やっぱりあの時期に男性の身体というのはウォリアー、戦士として再編成されますよね。それは平和な時代であろうがなんだろうが、戦士に近づくんですね、身体が。あれはある種の男性にとってはもうそれだけでいいわけなんですけれども、ある種の男性にとっては大変な強制というか、引きずり込まれるという感じがしますね、私のような文弱の徒は非常に嫌だったですよね(中井久夫『記憶・徴候・外傷』みすず書房、2004年、「身体の多様性」をめぐる対話より、p.367)。 永井豪原作の『マジンガーZ』(放映は1972年から1974年)に始まった現代日の「巨大ロボットアニメ」は、「テーマはアダルトチルドレン」という庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲ

    ゲリオン化する身体/再人間化する身体 - 熊田一雄の日記
  • 目標とする研究スタイル - 熊田一雄の日記

    (前略)ジェイムズの心理学は自己の体験から出発している。精神的危機をも経験し、神秘体験もあったジェイムズの精神医学は「私はこういう連中とは違うぞ」という精神医学ではなく「ひょっとしたら私もなったかもしれない」という精神医学である。そこから、「私の代わりになってくださったのかもしれない」(熊田註;<生存者罪悪感>のこと)まではほんの一歩である(中井久夫『樹をみつめて』みすず書房、2006年、「神谷美恵子さんの「人と読書」をめぐって」より、p.177) *私も、こういう研究をしたいものです。

    目標とする研究スタイル - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/17
    ジェイムズの精神医学は「私はこういう連中とは違うぞ」という精神医学ではなく「ひょっとしたら私もなったかもしれない」という精神医学である。「私の代わりになってくださったのかもしれない」まではほんの一歩
  • 押井守の「宮本武蔵」 - 熊田一雄の日記

    原案・脚: 押井守(原作: Production I.G、監督:西久保瑞穂)による歴史アニメドキュメンタリー『宮武蔵ー双剣に馳せる夢ー』(DVD、ポニーキャニオン、2010年)を見ました。アニメ作品としては失敗作だと思います。しかし、押井守による、「立身出世」して「兵法家」となり「関ヶ原の合戦に雪辱すること」を生涯の目標として生きた「徹底した合理主義者」という宮武蔵解釈は、面白かったです。「自己完成のための殺人」を繰り返す「精神主義者」という、安岡正篤=吉川英治による「総力戦=システム化社会」における宮武蔵解釈(拙著「男らしさという病?」参照)よりは、現代人にとって説得的な解釈です。 押井守は、井上雄彦の大ヒット中のマンガ「バガボンド」の精神主義的・求道者的な宮武蔵解釈とそれが支えている「覇権的男性性」(「男の中の男」のイメージ)とに異を唱えたくて、この失敗作をあえて世に問うたの

    押井守の「宮本武蔵」 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    押井守による、「立身出生」して「兵法家」となり「関ヶ原の合戦に雪辱すること」を生涯の目標として生きた「徹底した合理主義者」という宮本武蔵解釈
  • 旧日本軍と多重人格 - 熊田一雄の日記

    世界の多くの地域で、過去には、子供が大人の社会に加入する際(イニシエーション)、性的・身体的な虐待(肛門性交、切除、および殴打などその他の虐待)を含む残酷な儀式がかかわっていた。そのような儀式の効果(あるいは意図でさえも)は、成人に多重人格障害への傾向をつくりだすことなのだろうか。人格を分裂させる能力が積極的な利益をもたらす(あるいはそう考えられていた)ような状況ーたとえば、身体的または社会的な苦難に対処しなければならなくなるときーはあるのだろうか。多重人格はすぐれた戦士をつくるのだろうか(ニコラス・ハンスリー「自己について語るー多重人格障害の評価」『喪失と獲得ー進化心理学から見た心と体』紀伊国屋書店、2004年(原著2002年)、p.70)。 日軍は、戦争神経症を天皇の軍隊にあるまじきこととし、もっぱら「シュラークテラピー」(殴打療法)を行っていた。その治療像は、上級者にへつらい、下級

    旧日本軍と多重人格 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    多重人格はすぐれた戦士をつくるのだろうか
  • <武蔵的人格美学>の発見と変容(1) - 熊田一雄の日記

    1.佐藤忠男の<宮武蔵>批判 (前略)ただ、納得できないのは、ひとりの侍の武者修行のためには、たくさんの人間が片っ端から殺されてもそれは当たり前だ、という思想が、この小説の中ではどこでも批判されたり、検討されたりはしていないことである。(中略)(熊田註;立身出世の)強烈な野心にとり憑かれた男の悲劇的な半生、ということであれば、これは、今日の人間にとっても納得のいく物語であり得る。(中略)しかし武蔵は、自分の野心を修業によって抑えて、しだいに、人間完成、自己完成、という観念に置き換えていってしまう。しかし自己完成のための殺人とは何か。(中略)吉川英治の庶民的な人格主義とは、そもそもどういう質のものか。 (前略)自己完成とはなにかということを作品のなかから読み取ろうとしても、せいぜい、どんな危機にのぞんでも動揺せず、泰然自若としていられること、どんな種類の攻撃にぶつかっても臨機応変に自分の持

    <武蔵的人格美学>の発見と変容(1) - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    *岩明均の歴史マンガは、「人格美学」はもちろん、「立身出世」にも興味がない新しいヒーロー像
  • 宮本武蔵と<解離> - 熊田一雄の日記

    スタインバーグ(Steinberg,M.)は、症候論的にみた解離現象を、五つの中核症状に分けている。すなわち、1 健忘、2 離人症、3 現実感喪失、4 同一性混乱、5 同一性変容、である。解離による健忘は、自分自身の個人情報についての記憶の想起障害であり、器質性疾患のとは違って、一般的知識や日常の動作が障害されることはない。また、DSM-4(精神障害の診断と統計の手引き (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)第4版)の定義では離人症は「自分が自分の精神過程または身体から離れて外部の観察者になったかのような自己の知覚または体験の変化」で、現実感喪失は「外部世界の知覚または体験が変化して、それが奇妙に、また非現実的に見えること」である。同一性の混乱と変容について、彼女はそれぞれ「自我同一性や自己意識に関する不確実、困惑、葛

    宮本武蔵と<解離> - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    「乾坤を其侭庭にに見る時は/我は天地の外にこそ住め」は、DSM-4でいう「離人症」の感覚を詠んだものではないでしょうか。
  • <武蔵的人格美学>の発見と変容(2) - 熊田一雄の日記

    私は第一部で武蔵は、眼の前に何か困難な状況が横たわり、それに向って、大衆が突き進まなければならない時、読まれ、或いは、読み変えられてきた、と書いた。その時とは、戦中、戦後、そして今である。武蔵はその三つの時期において時代の精神の象徴と成り得たのである。武蔵が、唯一、時代の象徴とならなかった時代はいつか、といえば、それは高度経済成長期からバブル全盛期である、ではその時期、時代の象徴となり得た人物は誰か。それは、坂龍馬であり、織田信長であった。そして、この二人と武蔵の違いを記せば、それは一目瞭然ー龍馬と信長は組織のリーダー足り得るが、武蔵はなり得ない、ということであろう。 (中略) そして、今、その管理社会ももはや遠く、バブル崩壊後の草木も生えぬ有様の中、既成の価値観が崩壊し、暗中模索で歩を進めねばならぬ時代に、剣一筋で己の人生を切り開く武蔵の生き方が「うらやましい」、つまりは、一つの希望と

    <武蔵的人格美学>の発見と変容(2) - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/15
    管理社会ももはや遠く、バブル崩壊後の草木も生えぬ有様の中、既成の価値観が崩壊し、暗中模索で歩を進めねばならぬ時代に剣一筋で己の人生を切り開く武蔵の生き方が「うらやましい」、つまりは一つの希望として復活
  • バカボンドについて - 熊田一雄の日記

    井上雄彦が吉川英治の原作小説『宮武蔵』をマンガ化したバガボンド(1999-)について、映画評論家の佐藤忠男による「自己完成のための殺人」を説く「不毛な人格美学」という批判はあてはまらないと思います。井上雄彦は、吉川英治の原作をアレンジして、武蔵に「殺し合いの螺旋から/俺は降りる」(第30巻)ことを考えさせているからです。 「自己中心性」と「視野狭窄」を伴う「意地」とは、「非常事態を強行突破するための構え」であり、「来無冠の弱者にのみ許される」(中井久夫・佐竹洋人(編)『意地の心理』1987年、創元社、p.286)ものです。バブル崩壊後の経済状況にあって、社会的弱者たる若者たちは、「生き延びる」ためには「意地」を張る必要があったのでしょう。

    バカボンドについて - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    井上雄彦は、吉川英治の原作をアレンジして、武蔵に「殺し合いの螺旋から/俺は降りる」(第30巻)ことを考えさせている
  • るろうに剣心ー「不殺(ころさず)」の美学 - 熊田一雄の日記

    Wikipedia「るろうに剣心」より転載 『週刊少年ジャンプ』(集英社)誌上において1994年19号から1999年43号まで連載。単行ジャンプ・コミックスより全28巻。また後に完全版が全22巻で刊行された。 全28巻の売り上げは4700万部 - 5000万部を記録しているヒット作で、海外でも高い支持を受けている。 明治維新のために不意ながら自分を押し殺して人を斬り続け、「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客緋村剣心がある出来事から「不殺(ころさず)」を誓い、神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵たちとの戦いを通じて、新たな時代での生き方を模索していく。 *やはり、1990年代以降は、「自己完成のための殺人」を繰り返す<武蔵的人格美学>は流行らないようです。

    るろうに剣心ー「不殺(ころさず)」の美学 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    やはり、1990年代以降は、「自己完成のための殺人」を繰り返す<武蔵的人格美学>は流行らないようです。
  • 『宮本武蔵』と意地の美学 - 熊田一雄の日記

    意地とは、自分に引け目を感じていながら、その引け目でもって自分自身がほんとうにダメになってしまわないよう、せいいっぱいの虚勢をはることだ、というふうにも定義し直せるかもしれない。 繰り返し映画化されてやまない吉川英治原作の『宮武蔵』はとくに内田吐夢監督、中村錦之助主演版の六〇年代の五部作がじつに面白いと思うのだが、見ていてふっと、しかし剣道の修行だといってやたらと人を殺すのはどういうわけだろう、まるで殺人鬼ではないか、おまけにそれが精神の鍛錬にもなるとは、なんという非人間的な思想だろう、と、そんな映画に興奮している自分自身にまで疑問をもつことがある。しかし考えてみると、宮武蔵という男は、少年のときに関ヶ原の合戦に参加して敗残兵となっていらい、もう、いくら武術を磨いても実際の役には立たない戦争のない時代にほおり出されてしまっているのである。しかし彼は、自分には武術しか取り柄がないと思って

    『宮本武蔵』と意地の美学 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    宮本武蔵という男のすさまじい闘志も、実は自分は無用の存在ではないかという不安感や引け目をふりはらい、つきぬけるための、がむしゃらさ、として理解できる
  • 引きこもりの男性が多い理由 - 熊田一雄の日記

    http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1001/11/news002.html より転載 東京都の2008年調査によると、“引きこもり”の71.4%が男性なんだそうです。なぜ男性は引きこもるのか? なぜ女性は引きこもらないのか? 「男子は生まれつき“引きこもり遺伝子”を持っているのだ」という方向にいくと議論にならないので、ここでは環境要因を考えてみましょう。 「外の世界」は男性に厳しい 引きこもる人にとっては、「引きこもらない日常生活」は苦しくつらいものであり、それよりは「引きこもる生活」の方がまだマシ(よりポジティブ)なのでしょう。 まず、男性にとってはこの「引きこもらない日常生活」が、女性よりも圧倒的に困難なのだと想像されます。なぜなら社会生活から受けるプレッシャーは、男女同権とされる今でも男性の方がかなり大きいからです。 「フリーターのままだと結婚

    引きこもりの男性が多い理由 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    “空想する力が強すぎる人たち”は敏感で繊細で傷つきやすい。
  • 混血児としての『宮本武蔵』 - 熊田一雄の日記

    騎士道物語にも比すべき武勇秀でたヒーローの旅の物語として、昭和になってからの日で書かれた最大の作品は、吉川英治の大河小説『宮武蔵』であろう。何度となく大長編の映画としてつくられたこの物語は、武勇の物語であると同時にまた、貴婦人崇拝の要素も含んでいて、日的であると同時にヨーロッパ的であり、混血児的である。宮武蔵は諸国遍歴の武芸者であるが、心の恋人にお通さんという女性の面影を抱いていて、日夜、彼女への愛に心をかきむしられながら旅を続けるのだ。そんなに好きなら結婚してしまえばいいのに、結婚などしたら武者修行はできない、と言って旅を続ける(佐藤忠男『意地の美学-時代劇映画大全-』じゃこめてい出版、2009年、p.94)。 *「一つのことに打ち込むのに恋愛は邪魔である」という『宮武蔵』的命題が、『バガボンド』にも踏襲されるのかどうか、間もなくわかるでしょう。ちなみに、高橋留美子(作)のボク

    混血児としての『宮本武蔵』 - 熊田一雄の日記
    kotobuku
    kotobuku 2010/08/14
    武勇の物語であると同時にまた、貴婦人崇拝の要素も含んでいて、日本的であると同時にヨーロッパ的であり、混血児的である。
  • <自己完成のための殺人>の発見と変容ー『宮本武蔵』をめぐってー - 熊田一雄の日記

    『愛知学院大学人間文化研究所紀要』25号原稿(2010年9月刊行) <題名><自己完成のための殺人>の発見と変容−『宮武蔵』をめぐってー <著者>熊田一雄(宗教文化学科准教授) <Title>The Discovery and Transformation of <Murder for Self-completion>:About“Miyamoto Musashi” <Author>Kazuo KUMATA(Associate Professor of Department of Religious Culture) <要旨> 稿の目的は、近代日の大衆文学のキャノンである吉川英治の小説『宮武蔵』(1935-1939)を文化社会学的に考察することにある。まず、『吉川武蔵』に見られる「自己完成のための殺人」という「不毛な人格美学」に対する佐藤忠男による批判を紹介し、吉川武蔵の説く「大衆

    <自己完成のための殺人>の発見と変容ー『宮本武蔵』をめぐってー - 熊田一雄の日記