終戦の秋、十一月の下旬、私の親兄弟姉妹五人が疎開先の小田原から、おんぼろトラックに煤詰めとなって、辛うじて引き揚げてきた思い出は、数十年を経たいまも鮮明に甦る。その記憶と見合うのが、谷内六郎の『終戦の秋』という有名な絵だ。 この絵は敗戦から十年以上経て描かれたものであろう。どこまでも続く荒涼たる焼け跡。地平線に沈む夕陽を、「ラッキーストライク」の外装として、敗戦の忌ま忌ましさ、屈辱感を端的に表現しようとしたか。諷刺性もあるが、しかし、敗戦後三ヶ月ぐらいの時点にあっては――トラックの助手席に重なり合うように乗った、痩せ衰えた私たち兄弟姉妹が街道の荒涼たる風景から感じたものは、到底それどころではなく、一種の寂寞感、不安感のみであった。 こうした感情は、同時代を知る人の間では共有できるものと思っていた。長いあいだ、そのように思ってきたし、いまでも間違いないように思うが、近年、後続世代の間との解釈
来年は八十歳。もう蔵書は持ちこたえられないということで、この二、三年で約二万冊の書籍を処分したが、終末に近くなるほど断捨離が難しくなるのを実感している。以下の文章は七年前に雑誌「論座」6月号に寄稿したものだが、当時震災対策を兼ねて地方に1万冊を収容する書庫を設け、ある程度の成算を得ながら、現地事情から頓挫しかけている状況を記したものである。実際に頓挫してしまったわけだが、その後の閉塞状況を、第二回にリポートする予定である。 ------------------------------------------------------- 蔵書の整理に悪戦苦闘すること四十数年、古稀を過ぎてから敗北宣言をするのは正直いって辛いものがある。はじめて本や資料の分類整理、収蔵についての考えを『現代人の読書』(1954)という一書にまとめたのが三十歳になる少し前、高度成長の余慶がようやく庶民にもおよびはじ
明治、大正時代に突如として現れた富裕層、いわゆる「成金」である。彼らは途方もない豪邸を建て、愛人を囲い、常識破りの浪費に明け暮れた。もちろん、大倉喜八郎のように事業を興し、美術館を残した人物も存在したが、多くの場合、成金は数年で姿を消した。 彼らは放蕩に明け暮れ、社会も立身出身の象徴として彼らをもてはやした。国力の発展と個人の成功が一致するという考え方が、多くの人を捉えていたからだ。無論、高額紙幣を燃やして見せるような成金の極端な行為は軽蔑されたが、成金が姿を現すたび、同じような愚行が繰り返された。 当時の日本は圧倒的に貧しく、国民の多くは貧困層に属し、富裕層との相対的な格差は今よりはるかに大きかった。だが、貧困層にとってははあまりに雲の上の世界なので、あきらめの感情の方が強かった。 戦前の成金時代には、社会は未成熟で、巨万の富の使い道は限られていた。また富裕層と貧困層の交流もなく、富裕層
鉛筆の国内生産量が激減し、いまや業界の一部は特定雇用調整業種に指定されるに至ったという新聞記事に接した。外国からの安い鉛筆に市場を奪われたほか、シャープペンシルをはじめとする筆記具の多様化、児童・生徒数の減少、パソコンの普及などにも原因があるという。 調べてみると鉛筆の歴史は意外に古く、1566年といえば日本では足利時代、イギリスはカンバーランド州のボローデルという峡谷で発見された黒鉛を木片に挟み、筆記具として使用したのがはじまりとされる。黒鉛を粘土とまぜ合わせて芯を焼きあげる製法は、1795年フランスのコンテにより発明された。 わが国への渡来は、オランダから家康に献上されたものをもって嚆矢とするが、普及したのは明治になってからで、1820年、真崎仁六による三菱鉛筆が国産第一号とある。現在「三菱鉛筆」のホームページ(http://www.mpuni.co.jp/text/enshi.htm
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