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  • 『大乗起信論』と賢治

    先月の初めに、「ABC予想」という数学の超難問を、望月新一氏という数学者が解決したというニュースが日中を駆けめぐりましたが、この件ほどには話題にはならなかったものの、仏教学の分野でこれに相当するのではないかと思われる画期的な業績が、2年半前に一人の日人研究者によって成し遂げられました。大竹晋氏による、『大乗起信論成立問題の研究: 『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』が、それです。 望月新一氏の「宇宙際タイヒミュラー理論」については、残念ながら私はその1文字すら理解することができませんが、こちらの大竹晋氏のお仕事ならば、たとえ門外漢でもその有り難さの一端には触れてみることができるのではないかと思い、この外出自粛の連休中に一念発起して、氏の大部な著書を紐解いてみました。 そこには、やはり私には読めもしないサンスクリットの文字や漢文の白文もたくさんあったのですが、それでも研究全体

    『大乗起信論』と賢治
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    kskim 2020/05/08
  • 「山川草木悉皆成仏」の由来(2)

    先日の「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」という記事では、岡田真美子氏による「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という2002年の論文をもとにして、現在はよく知られている「山川草木悉皆成仏」という言葉が、実は仏典に直接由来するものではなく、最近になって梅原猛氏が造語したものだろうという話をご紹介しました。 その後、2015年に公刊された末木文美士著『草木成仏の思想』というにおいても、「(「山川草木悉皆成仏」は)もとはと言えば、哲学者の梅原猛が言い出したことで、それを中曽根康弘首相が第104回国会における施政方針演説(1986年1月27日)において使ったことで、一気に広まったようだ」と書かれており、今やこの「梅原猛造語説」は、広く認められることとなっているようです。 前回の記事「「山川草木悉皆成仏」の由来(1)」の最後では、実際これが梅原猛氏の言い出した言葉だとしても、宮澤賢治の書簡に

    「山川草木悉皆成仏」の由来(2)
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    kskim 2020/05/04
  • 随縁真如・心生滅・唯心

    1921年(大正10年)4月の、父政次郎との関西旅行の際に作られた短歌の中に、「随縁真如」という見出しが付けられた3首があります。 ※ 随縁真如 784 みまなこをひらけばひらくあめつちにその七舌(しちぜつ)のかぎを得たまふ。 ※ 同 785 さながらにきざむこゝろの峯々にいま咲きわたる厚朴の花かも 786 暮れそめぬふりさけみればみねちかき講堂あたりまたたく灯あり。 父とともに比叡山に登って延暦寺に参拝した際の作品で、この前には「※ 根中堂」「※ 大講堂」という見出しが付けられた作が並んでいますから、 時間的には根中堂や大講堂に参った後のものかと思われます。 この「随縁真如」というのはなかなか難しい仏教用語ですが、『岩波仏教辞典』では、次のように説明されています。 随縁真如 ずいえんしんにょ 心の質としての真如・法性がさまざまな縁にしたがって(随縁)作動すること。不変真如の対。真如

    随縁真如・心生滅・唯心
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    kskim 2020/04/20
  • Casual observer! Superficial traveler!

    Casual observer! Superficial traveler! 「オホーツク挽歌」の後半で、賢治は樺太の栄浜の海岸にたたずみ、いつまでも死んだ妹のことばかり考え苦しみつづける自分を責めています。 やうやく乾いたばかりのこまかな砂が この十字架の刻みのなかをながれ いまはもうどんどん流れてゐる 海がこんなに青いのに わたくしがまだとし子のことを考へてゐると なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を 悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ またわたくしのなかでいふ (Casual observer! Superficial traveler!) 最後の行の'Casual observer! Superficial traveler!'という英語は、たとえば『定 宮澤賢治語彙辞典』では「いいかげんな観察者! 浅薄な旅人よ!」と訳されていて、迷いにとらわれつづけている己れへの自嘲と解

    Casual observer! Superficial traveler!
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    kskim 2020/04/06
  • 心はとにかく形だけで...

    先日、「「摂折御文 僧俗御判」の目的」という記事に書いたように、賢治はこの抜き書き集を編むことによって、「折伏」に臨む己れの心を鍛え直し、また「家を出る」覚悟を固めようとしたのではないかと考えているのですが、たとえばその具体的な影響は、次のようなところにも表れているのではないかと思います。 「摂折御文 僧俗御判」の53番目に引用されている「出家功徳御書」は、僧をやめて還俗しようとしている弟子に対し、日蓮が思いとどまるよう戒める内容の書簡ですが、その中に下記のような箇所があります。 (『新校全集』第14巻文篇p.319) 所詮心は兎に角も起れ身をば教の如く一期出家にてあらば自ら冥加も有ルべし。此理に背キて還俗せば仏天の御罰を蒙り現世には浅ましくなりはて後生には三悪道に堕ちぬべし。能々思案あるべし 身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし 〔現代語私訳〕 しょせん心に

    心はとにかく形だけで...
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    kskim 2020/03/23
  • 「摂折御文 僧俗御判」の目的

    1.「摂折御文 僧俗御判」とは何か 『新校宮澤賢治全集』第14巻の「雑纂」の項目に、「摂折御文 僧俗御判」と題された賢治作成の「抜き書き集」が収められています。その前半は、田中智学の著書『化摂折論』の中で智学が経典や日蓮遺文を引用している部分を書き出したものであり、後半は、霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』からの抜粋になっています。 右の画像は、『図説 宮澤賢治』(ちくま学芸文庫)より、賢治が毛筆で書いた、この抜き書き集の表紙です。 全集校異篇の《補説》によれば、この「摂折御文 僧俗御判」の目的は、「あくまで賢治自身の信仰のためのメモであり、〔中略〕教化的発想とは立脚点を全く異にする」ということで、つまり他人に見せるためではなく自分用に作成した覚え書きと考えられるものです。また、賢治がこれを作成したのは、使用されている用紙から、1920年(大正9年)夏頃と推定されるということです。 何よりまず

    「摂折御文 僧俗御判」の目的
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    kskim 2020/03/09
  • 「山川草木悉皆成仏」の由来(1)

    もともとインドの大乗仏教では、成仏できるのは「有情」あるいは「衆生」と呼ばれる「心を持った生き物」、すなわち人間と動物に限るとされていました。それが中国の三論宗や華厳宗において、「草木成仏」という思想が生まれて、植物も成仏できると考えられるようになったのだそうです。 これがさらに日に入ると、「草木国土悉皆成仏」という形で、無機物である「国土」までもが成仏できるのだと説かれるようになったということで、このあたりの事情は、岡田真美子氏の「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」という論文に記されています。「草木国土悉皆成仏」という言葉は、能の謡曲には経文の一節としてしばしば登場するそうですが、現実の経典中にはこの言葉は見当たらず、末木文美士著『草木成仏の思想』によれば、最初に登場するのは、平安時代の天台僧安然が著した『斟定草木成仏私記』においてだということです。 一方、現代において、この「草木

    「山川草木悉皆成仏」の由来(1)
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    kskim 2020/03/02
  • 賢治は日蓮主義者だったのか(2)

    先日は「賢治は日蓮主義者だったのか(1)」という記事において、賢治はいったい田中智学や日蓮主義の思想のどこに惹かれて、他ならぬ国柱会に入ったのだろうかという疑問について考えようとしました。いちおう考えてはみたのですが、田中智学の独特の主張に賢治が共感していたことを示す証拠はどうしても見つけられず、それは依然として謎のままでしたし、むしろ賢治は、智学の思想内容に感銘を受けて入会したというような、「内的」な動機によったのではなく、たまたま彼が求めていた時にそれが目の前に強力な「乗り物」のように現れたので、是非もなくそれに跳び乗ったというような、「外的」な要因によったのではないか、などと考えてもみました。 しかしその後、前回の考察にはちょっと見落としがあったのではないかという気が何となくしてきて、今回もう一度取り上げてみようと思います。見落としというのは、次のような事柄です。 現代の私たちの頭の

    賢治は日蓮主義者だったのか(2)
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    kskim 2020/02/24
  • 賢治は日蓮主義者だったのか(1)

    600ページ以上もある大部なですが、明治時代の半ばから太平洋戦争突入に至る国家主義の勃興とその暴走のプロセスを、宗教思想の面から鮮やかに跡づける内容で、面白く一気に読み終えました。 印象に残る記述もいろいろありましたが、内村鑑三と田中智学という同じ年の生まれの二人の宗教者を挙げて、「「ふたつのJ(JesusとJapan)」を愛した内村にならえば、智学は「ふたつのN(NichirenとNippon)」のために生きた」と評した言葉は、言い得て妙だと思いました。 また、戦前~戦中日の対外侵略のスローガンとされていた「八紘一宇」という言葉は、日書紀の字句に基づいて田中智学が考え出したものと従来は言われていましたが、著者の最近の調査によれば、この言葉を最初に用いたのは、田中智学・多日生とともに「日蓮主義の三大家」と呼ばれた清水梁山という宗教家だったということです。 田中智学による最初の用例は

    賢治は日蓮主義者だったのか(1)
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    kskim 2020/02/17
  • 四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩

    タイトルの「行ッテ」というのは、「〔雨ニモマケズ〕」のテキストに、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句のことです。 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ 宮澤清六氏の孫である宮澤和樹さんは、東日大震災以降、全国各地で「〔雨ニモマケズ〕」について講演をされていますが、その際によく取り上げて話をされるのが、この「行ッテ」に込められた意味です。和樹さんは、たとえば次のように語られます。 祖父は私に「この作品は後半が大事なんだ」と教えてくれました。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ...」と東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事だと言うのです。 活字になると

    四つの「行ッテ」と地涌の四菩薩
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    kskim 2020/02/10
  • 1931年上京時に賢治が乗ったSL

    2018年12月に、桃子さんという方から、「1931年の最後の上京の際に、賢治が乗っていたSLはどの型だったのですか?」という質問のメールをいただきました。桃子さんは、これについて調べるために国会図書館へ行き、司書の方にも協力してもらって調べたけれど、わからなかったということです。 私は鉄道関係のことには全く明るくありませんし、これまで考えてもみなかった問題で、国会図書館で調べてもわからなかったことに何か付け加えるようなことが答えられるはずもありませんでしたが、とりあえず当時の国鉄で使われていたSLの型と各々の製造年、使用されていた路線の記録から、8620型(製造1914-1929)、C50(製造1929-1933)、C51(製造1919-1928)、C54(製造1931)のどれかの可能性が考えられるが、それ以上のことはわからないですとお返事をしました。 その後、2019年の春にまた桃子さ

    1931年上京時に賢治が乗ったSL
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    kskim 2020/02/03
  • 宮澤賢治における「倫理」と「美」

    多くの人のいだく宮沢賢治のイメージというと、ストイックで、献身的で、信仰篤く、謙虚な人というようなもので、その人柄や作品からは、「倫理的」な要素を強く感じられるのではないでしょうか。 現実の賢治の生き方を見ても、自分一人が幸せになるとか楽をするとかいうことは眼中になく、いつも他者のために尽くそうとしていたのは確かだと思われますし、そういうところはまさに「倫理に生きた人」という感じです。 またその作品に目を転じても、「雨ニモマケズ」はその一つの典型ですし、童話では「グスコーブドリの伝記」とか「貝の火」とか「ひかりの素足」など、読んでいて胸が苦しくなるほどの倫理性を感じます。 しかし、その一方で賢治という人は、上のような倫理性とは別の側面として、とにかく「美しいもの」には理屈抜きに陶酔してしまうところがあったのも事実だと思います。何かに感動すると、「ほほーっ」と叫んで飛び上がったり踊り出したり

    宮澤賢治における「倫理」と「美」
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    kskim 2020/01/04
  • おお朋だちよ 君は行くべく...

    「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。 おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。 前後の文脈からしても、この解釈でまあ特に問題はないようにも思えるのですが、ただ少し気になる点が一つ残ります。「農民芸術概論綱要」全体の基調としては、主語は基的に「われら」であり

    おお朋だちよ 君は行くべく...
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    kskim 2019/12/30
  • 宮沢賢治作品の幻想性の由来

    先週12月8日に、「日イメージ心理学会」のシンポジウム「宮沢賢治の持つイメージの世界をどう読み解くか」でお話をさせていただいた際の配付資料を、下記にアップしました。嵩高いタイトルでちょっと気恥ずかしいですが、ご興味がおありの方にお読みいただけましたら幸いです。 「宮沢賢治作品の幻想性の由来――その方法論と体験特性」(配付資料) ところで今回の発表では、賢治のモチーフをあしらった縦書きパワーポイントテンプレートを作成して、初めて使ってみました。作品テキストを引用する際には、やはり縦書きの方がしっくり来るので、従来は横書きと縦書きが混在するスライドになっていたのですが、これで全体が縦書きで統一できました。 タイトル行の区切り線の上端には、賢治が描いた「月夜のでんしんばしら」を入れています。 スライドの中から、アニメーションを用いた数枚を、GIFにして下に貼っておきます。

    宮沢賢治作品の幻想性の由来
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    kskim 2019/12/16
  • 君野隆久著『捨身の仏教』

    最近は、来週の日イメージ心理学会シンポジウムの準備に追われていて、ブログの更新がまったくできていませんでしたが、今日でやっと配付資料やスライドが形になって、先が見えてきたところです。 ※ ところで、先ごろ京都造形芸術大学の君野隆久さんが、ご著書『捨身の仏教―日における菩薩生譚』を、ご恵贈下さいました。ここに深く感謝を申し上げます。 君野隆久さんとは、2014年に「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」でご一緒をした時以来のご縁なのですが、釈迦の前生譚など「ジャータカ」の研究者でいらっしゃいます。 恥ずかしながら、私はそれまでジャータカというものについてほとんど知らなかったのですが、上記セミナーで君野さんの素晴らしいご講演「宮沢賢治とジャータカ」をお聞きして、その劇的な世界と賢治とのただならむ因縁に、強く惹かれました。これらの物語は、賢治の深層の心理と、どこか奥深くでつなが

    君野隆久著『捨身の仏教』
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    kskim 2019/12/02
  • Attachment is forbidden...

    Attachment is forbidden... アナキン・スカイウォーカーとパドメ・アミダラが、下記のように語り合っています。 Padme: Are you allowed to love? (あなたたちは愛することを許されているの?) I thought that was forbidden for a Jedi. (ジェダイは愛を禁じられているのかと思ってた。) Anakin: Attachment is forbidden. (愛着は禁じられている。) Possession is forbidden. (所有も禁じられている。) Compassion, which I would define as unconditional love... (慈愛というのは、無条件の愛のことだけど... is central to a Jedi's life. これはジェダイの生き方の中心な

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    kskim 2019/10/07
  • 存在否定から全称肯定へ

    先日以来、「「〈みちづれ〉希求」の挫折と苦悩」とか「「〈みちづれ〉希求」の昇華」などという記事を書いていましたが、それらで私が言いたかったことの要点は、「賢治には「〈みちづれ〉希求」というような独特の強い感情があって、ある時期まで己の〈みちづれ〉として求めた人に次々と去られ、喪失感や孤独感に苦しんだが、ある時期からは個人を〈みちづれ〉として求めることはやめて、代わりに全ての衆生を〈みちづれ〉として道を求めていこうと考えるに至った」というようなことでした。 また一方、以前から私は「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」とか、当ブログのいくつかの記事において、「賢治はある時期までトシの喪失を受容できず苦悩していたが、ある時期以降は『トシがいつも近くにいる』という感覚を抱くようになり、苦しみを乗り越えていったのではないか」ということを考えてきました。 最近、この二つの「乗り越えの論理」は、構造的にとても似

    存在否定から全称肯定へ
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    kskim 2019/09/16
  • 京大で「宮沢賢治と鉱物」講演会

    現在、京都大学総合博物館では、「地の宝II 比企鉱物標」という企画展が行われていますが、関連した催し一環として、来たる9月15日(日)に同博物館で、「宮沢賢治と鉱物」と題した講演会が行われます。 日時: 9月15日(日) 14:00~15:00 タイトル: 「宮沢賢治と鉱物」 演者: 桜井 弘(京都薬科大学名誉教授) 講師の桜井弘さんは、賢治の作品に出てくる45の元素を、美しい鉱物写真とともに周期律の順に配列した、『宮沢賢治の元素図鑑』(化学同人)を、昨年刊行された化学者で、賢治の作品に対する愛情は、このの隅々にまで充ちあふれています。ちなみに、賢治の来の専攻分野は「化学(農芸化学)」でしたが、桜井さんも「化学」がご専門で、なおかつ「鉱物学」や「地質学」の造詣も深いというところも共通しており、科学者としてのスタンスに何か響き合うものがあるのかもしれません。 講演の終了後には、「展示解

    京大で「宮沢賢治と鉱物」講演会
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    kskim 2019/09/08
  • 「〈みちづれ〉希求」の昇華

    「〈みちづれ〉希求」の話に行く前に、まずは次の疑問について考えることから、今回の記事を始めてみたいと思います。 『春と修羅』を書いていた頃の賢治は、いったいなぜ、自らの〈修羅〉性について、あれほど尖鋭に意識し、苦悩しなければならなかったのでしょうか。 賢治が自らを〈修羅〉と規定し、そのような己の性に対峙しつつ苦しんだことは、「春と修羅」の、 おれはひとりの修羅なのだ (風景はなみだにゆすれ) という箇所に、端的に表れています。なぜ彼は、自分のことを「ひとりの修羅なのだ」と呼び、そのために風景がゆすれるほど、なみだを流さなければならなかったのでしょうか。これは、『春と修羅』という一つの詩集全体をも貫くテーマとも言える、重要な問題でしょう。 まず客観的に見ると、宮澤賢治という人は、「修羅」と言えるような人柄でもなく、またそういった行動をする人でもなかったということは、以前の「諂曲なるは修羅」

    「〈みちづれ〉希求」の昇華
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    kskim 2019/09/02
  • 足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑

    8月11日から12日にかけて、高知県の足摺岬の奥の牧場に先月建立された、「雨ニモマケズ」詩碑の見学に行ってきました。 先週から台風が、まさにちょうどこのあたりを目ざして来ているところだったので、無事に行き着けるかと心配していたのですが、当初の予想よりも台風の接近が遅れてくれたおかで、天候は大丈夫でした。 瀬戸大橋が架かってからは、京阪神から四国に入るまではあっという間なのに、やはり足摺まで行くとなると、四国の中での移動が大変です。高知まで土讃線の振り子列車に揺られながら山を越え、そこからさらにJRと土佐くろしお鉄道をまたぐ、「特急あしずり」に乗ります。 下の写真は、土佐くろしお鉄道の土佐佐賀あたりで、車窓から見た海の様子です。青空ものぞいてはいるものの、遠くの雲は台風の接近を匂わせて何となく不穏で、海には白い波しぶきがかなり目立っています。 「あしずり」に乗って約2時間で終点の中村(四万十

    足摺岬の「雨ニモマケズ」詩碑
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    kskim 2019/08/16