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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (5)

  • ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側

    こんなタイトルのエントリを書くというのは、正直、悩ましい。 というのも、ぼくは社会学の正規教育は受けておらず、自分が社会学者だとはちょっと名乗れないからだ(制度的な理由で学位は「法学」だ)。 とはいえ、社会学部に勤務しているのは確かだし、社会学的なものに親しみもある。以下の文章は、あくまでそういう中途半端な立ち位置から書かれた「個人の感想」だということをまずは述べておきたい。 ネット上での社会学の評判はよくない。大変によくない。 実のところ、ネット上で積極的に発言をしている社会学者の数はさほど多くないと思うのだが、通常は社会学者だとはカテゴライズされない人も、「政治社会に関する発言をしており、かつ多くの人びとから反発を買っている人文社会系の学者」は「社会学者」とみなされてしまうことが結構ある。 それではなぜ、ネット上で社会学者はこんなにも嫌われるのだろうか。 社会学者が嫌いな人からは当然、

    ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか - 擬似環境の向こう側
    ktasaka
    ktasaka 2020/02/25
  • 表現の差別性を告発すること - 擬似環境の向こう側

    いまも昔も、ネットでのコミュニケーションでは諍いが絶えない。昨日はあちらで、今日はこちらで、といった感じで、いろいろなところで火の手が上がる。 それらの「論争」を眺めていると、対立している双方が強い被害者意識を持っていることが少なくない。とりわけそれが「差別批判 vs 表現の自由の擁護」という構図を取ると、その傾向はより一層強まる。 一方には、差別によって苦しんでいたり、その苦しみを引き受けることでメディア表現のあり方を問題視する人たちが存在する。他方には、そうした差別批判によって自分たちが享受してきた表現の自由が脅かされていると感じる人たちがいる。「相手によって自分たちの権利が脅かされている」と感じる人びと同士が対立する構図が生まれてしまっているように思える。 そのような構図のもとでは、「潰すか、潰されるか」という発想にしかならず、意見の違いを認め合ったり、歩み寄りが生じたりすることはま

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    ktasaka 2018/10/07
  • 『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』紹介 - 擬似環境の向こう側

    以前、このブログで「リベラル・ナショナリズム」について取り上げたことがある(参照)。矛盾する思想と見なされることの多いリベラリズムとナショナリズムとを組み合わせ、それを肯定しようとする立場の議論だ。 このリベラル・ナショナリズムの思想をより深いところまで突き詰めた著作が、安達智史さんの『リベラル・ナショナリズムと多文化主義―イギリスの社会統合とムスリム』(勁草書房、2013年)だ。イギリスの移民政策をケース・スタディとしつつ、リベラル・ナショナリズムと多文化主義について書かれた大作である。 書はまず、移民の急激な増加によって「超」多様化するイギリス社会を取り巻く現状について概観する。そこでは移民に対する反発が強まる一方で、移民なしではもはや社会が立ち行かなくなっているイギリス社会の実情が明らかにされる。 次に、書の理論的な背景として、政治哲学の領域に踏み込み、ロールズやサンデルなどによ

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    ktasaka 2015/01/12
  • 「階級小説」としてのハリー・ポッター - 擬似環境の向こう側

    小説映画もずっと前に完結したハリー・ポッターについて、なんで今さら書くのか。はっきり言って特に理由はない。あえて言えば、今日読んでた論文に“scrounger”という単語が出てきて、「ああ、これハリポタでも出てきたなあ」と思いだしたというのが最大の理由だ。 さて、エントリのタイトルの通り、ハリポタは階級小説である。階級小説というのは、要するに社会階級の存在を中心的なテーマとして描く作品で、イギリスに数多く存在すると言われる。日のマンガでも、金持ちのボンボンとメイドとの恋を描いた『エマ』は階級マンガと言えるのではあるまいか。そして、ご多分に漏れず、イギリスで生まれたハリポタという作品も階級小説として読むことができる(たぶん)。 というわけで、以下はネタバレ満載なので、これからハリポタを読もう(見よう)と思っている人は止めておいたほうが無難だし、そもそもハリポタに興味がないという人にとって

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    ktasaka 2014/11/17
  • リベラルのことばが届かない - 擬似環境の向こう側

    ネット上では「サヨク」や「リベラル」を嘲笑し、罵倒する言葉に溢れている。 そもそも、誰が「サヨク」で誰が「リベラル」なのか、いまいちはっきりしないのだが、たとえば『朝日新聞』でよく見るような意見の持ち主を指すと考えていいんじゃないかと思う。護憲、歴史修正主義に反対、国際的融和の重視、反ナショナリズムといった主張がそれにあたる。他方で、格差や貧困の是正や社会保障の拡充などは典型的な左翼的主張だとも言えるが、この点についてはそれほど批判されない。 いずれにせよ、ここではそうしたリベラルの「ことば」が届かないという事態について考えてみたい。まず、12月25日の『朝日新聞』に掲載された星野智幸さんの論説を一部紹介しておこう。 それにしても、不思議に思う。あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にしてなぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。(中略) ナショナリズム

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    ktasaka
    ktasaka 2013/12/26
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