社会に衝撃を与えた重大事件・事故の特集ページです。発生当時の状況や事件の背景、社会への影響について、当時の新聞紙面や写真を使って詳しく解説しています。警察の隠語を紹介した用語集も併せてご覧下さい。
全国から寄せられた激励メッセージへの返事を書く箱石佑太君(左手前)=岩手県山田町の町立大沢小で2011年4月4日、篠口純子撮影 「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。 ◇3月11日 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来
荒れ果てた校舎内でランドセルを拾う岩崎教諭=宮城県山元町で2011年3月18日午後3時49分、津久井達撮影 大地震の際、宮城県山元町立中浜小学校の児童らは「徒歩での避難では間に合わない」との井上剛校長(53)の判断で、校舎の屋上に避難した。周囲は家屋が押し流され多数の犠牲者が出たが、児童52人は全員無事だった。井上校長の判断の背景には、津波対策が施された校舎への信頼があった。 がれきの中にぽつんと残った中浜小は、海岸から200メートルしか離れていない。津波を想定した避難計画では高台にある町立坂元中学校に徒歩で逃げることになっていた。しかし今回、実際に中学に向かった多くの住民が途中で津波にのまれた。 「予想到達時間10分」の大津波警報を聞いた井上校長は町教委に相談する時間もなかった。「避難しても間に合わない」と判断し、校庭で遊んでいた1、2年生を急いで校舎に呼び戻した。児童や教諭、住民ら計9
東京・秋葉原でも売っている安価な材料を使ってスーパーコンピューター(スパコン)を製作、演算速度日本一を達成した長崎大学の浜田(剛つよし)助教(35)らが、米国電気電子学会の「ゴードン・ベル賞」を受賞した。政府の「事業仕分け」で次世代スパコンの事実上凍結方針が物議を醸しているが、受賞は安い予算でもスパコンを作れることを示した形で、議論に一石を投じそうだ。 同賞は、コンピューターについて世界で最も優れた性能を記録した研究者に与えられ「スパコンのノーベル賞」とも呼ばれる。浜田助教は、横田理央・英ブリストル大研究員、(似鳥にたどり)啓吾・理化学研究所特別研究員との共同研究で受賞。日本の研究機関の受賞は06年の理化学研究所以来3年ぶりという快挙だ。 浜田助教らは「スパコンは高額をかけて構築するのが主流。全く逆の発想で挑戦しよう」と、ゲーム機などに使われ、秋葉原の電気街でも売られている、コンピューター
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