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ブックマーク / tkshhysh.hatenablog.com (8)

  • 市場を開くことは良いことか? - Metaeconomics

    かなり長い間更新が滞ってしまった.個人的事情もあるが,どうやら自分の興味に引きつけてしかモノを考えられなくなっているようで,そこから外れたことについて包括的にまとめる意欲が格段に落ちてしまっているようである. 今回は以前書いた記事の続編ということで更新作業のリハビリとしたい. で,タイトルに戻るが,もちろん古典的答えはイエスである.というのも,開かれた市場に参加することで損をするような人はそもそも参加しないからだ(これを経済学では資源配分機構の「個人合理性」と呼ぶ). だがここではそういうことを問うているのではない.前記事にあるように,「すでに一定数の種類の財が取引していたものが、そこから取引の対象がより広がったら、人々は得するか?」ということを問題にしているのだ. これに対する"positive analysis"としての一般均衡理論の答えはノーである.貿易理論の文脈では負の交易条件効果

    市場を開くことは良いことか? - Metaeconomics
  • 資源配分の公平性 (1) - Metaeconomics

    資源配分の公平性について、書けるところまで書いてみようと思う。 意図的にそれと標榜している人でない限り、一般に経済学者は公平性について議論することがない。それは主観的には、「分を超えたことは言わない」「特定の倫理的価値判断には関わらない」という一種の良心からなのであろうが、それは客観的には、公平性の議論が論題に上らないおかげで説得力を保持しているような言論に加担していることになりかねない。 しかし、特定の倫理的価値判断に肩入れせずとも、種々の漠然とした理念を定式化し、それらの成立可能性、それらの間の論理的関係・両立可能性・不可能性を調べ、公平性に関するフォーマルな議論の共有を助けることは可能なのであり、それはまさに経済学者の職分の一つだと言えよう。 さて、「何が公平か」というのは結局のところ、「人は何に責任を負うか」ということに帰着する。このことについて誰もが一致して受け入れられる基準が

    資源配分の公平性 (1) - Metaeconomics
  • 経済学における極限論法 (1) - Metaeconomics

    経済学には、その言明だけを見ると珍妙な現実離れとしか思えないような、しかも時には矛盾に見えるような仮定がしばしばある。 経済学者の多くはこうした仮定の使用を、いわゆる"as if"論法=「記述的理論の価値はその仮定の現実的妥当性にあるのではなく、それが統一的に説明できる事柄の豊かさによって決まる」によって正当化するわけだが、それでは満足できない人は多いだろう。また、"as if"で正当化できるのは記述分析のみで、それでは厚生分析もできなければ政策的含意も出てこない。またなにより"as if"では、「なぜそうでなければならないか」という必然性が説明できない。 経済理論は仮定の必然性について議論するとき、しばしば極限論法を取る。これは、仮定を所与として受け取るのではなく、背後に何らかのプロセス(動的な行為のプロセスにせよ、静的な推論・思考実験プロセスにせよ)があると考え、仮定の言明をそうしたプ

    経済学における極限論法 (1) - Metaeconomics
  • 行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム - Metaeconomics

    次のような見解は、隣接社会科学においては以前から支持されていたであろうものだが、90年代中盤以降、経済学のメインストリームにおいても一定の支持を集めているものである:(1)人間は必ずしも従来の経済学の想定するような意味では「合理的」ではない;(2)しかも合理性からの乖離は、結論の定性的性質に影響を与えないような副次的要素あるいは誤差ではなく、定性的影響を持っている;(3)そうした乖離は決してランダムなものではなく、それ自体一定の規則性を持っている。 ここでまず、経済分析に関する限りでの「合理性」の範囲を確認しておくとそれは、各個人が(I)彼自身の整合的な優先順位・達成目標を持ち、(II)それを達成するために必要な、外界に対する正確な認識と情報とを持ち合わせ、(III)それらを論理整合的に処理し、自分の優先順位にとって最適な選択を導き出すことができる、というものである。*1あくまで個人レベル

    行動厚生経済学とリバータリアン・パターナリズム - Metaeconomics
    kuroiseisyun
    kuroiseisyun 2010/04/25
    ブクマ数伸びてるな。twitterで安田さんが紹介したからか。
  • 経済理論覚書 GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?

    マクロ経済に関わっている人達は、GDP(国内総生産)の上昇(と下降)および上昇率に一喜一憂するわけだが、GDPは記述論的にはともかく規範的には重要な指標なのだろうか? 外部性(=市場でカウントされないサービスや効果。例えば家事労働などのシャドウワークや環境効果)がカウントされていないからダメだ、と言いたいのではない。もちろんそれはそれで問題なのだが、ここで問題にしたいのはもっと内在的なことである。 GDPはフローの指標である。フローとは、ある期間の間になされた活動を計測したものである。簡単のために国内の民間部門だけを考えると、支出面で勘定した「ある期の」GDPは「その期の」消費プラス「その期の」投資だ。これはあくまでも「その期の」ものだ。しかも、消費だけを考えるならば、その期にみんながエンジョイしたものの評価としてそれはそれで理解できるが、投資を勘定に入れるとはどういうことだろうか?我々が

    経済理論覚書 GDPは厚生指標としては何を測っていることになるのか?
  • 市場は非合理的主体を淘汰するか? - Metaeconomics

    経済学はなぜ合理的な主体を想定するのか?という問いについて、Friedmanによる有名な答えがある。それは、「非合理的な主体は間違った投資選択をするので長期的には損を被り、市場から淘汰される。したがって、非合理的な主体は長期的な経済の挙動に影響を及ぼさないと考えられ、合理的な主体を想定しても分析上失うものはない」というものである。これをFreedman仮説と呼ぶことにしよう。*1 これは決して自明ではないし、なおかつ解釈に注意を要する命題である。というのは、長期的将来において淘汰を勝ち抜き市場をdominateすることと、何がしかの目的に照らして合理的に振舞うこととは全く別物だからである。 例えば、割引効用選好をもつ人々からなる経済では、最も割引率の低い=最もpatientで将来に重きを置く個人以外は、長期的な将来においては所得がゼロに収束することが知られている(Becker (1980)

    市場は非合理的主体を淘汰するか? - Metaeconomics
  • Metaeconomics

    今回は,近作 Christopher P. Chambers and Takashi Hayashi, Can everyone benefit from economic integration? February 2017.pdfはこちら の紹介である. 経済と経済とが統合することによって誰も損をしないような資源配分ルール,より広く言うなら,所謂「グローバリゼーション」によって誰も損をしないような資源配分ルールというのは可能であろうか? 競争均衡解がこの性質を満たさないことは容易に示せる.2財の交換経済を考えよう(生産経済を考えることもできるのだが,これから書くのは不可能性の話なので,交換経済でさえ不可能なのに,いわんや生産経済においてをや,である).の3人は で表現される同一のコブ・ダグラス型選好(これに意味はない)を持つとしよう. 3人の初期保有は ,, で与えられるとしよう. こ

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  • 効率性と厚生比較 (1) - Metaeconomics

    「効率」という言葉が言論において出てくるのはたいてい、「効率優先」を慨嘆するような文脈においてである。もう一方で、「効率」概念が積極的肯定的に用いられる場面においては、「これに同意できないのはバカだ」と言わんばかりに、あたかもそれが「科学的」な基準であるかのごとく言及されている。いずれにしても、こうした形で登場する「効率性」はある一元的な基準として用いられており、肯定も反発もそこに向けられているように見受けられる。 しかし、経済学においては来、効率性それ自体はそんなに強い含意を持っていない。むしろ含意が弱すぎることの方が問題だと言っていいくらいである。*1もしこの効率性が何がしか一元的な基準に見えるようであるならば、それは「効率性 plus something」が語られているのであり、語っている当人がこの something に気づいていないかあるいは意図的に触れていないかのどちらかの理

    効率性と厚生比較 (1) - Metaeconomics
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