他の方の回答が既に詳しいので、僕は少し補足を。 春秋戦国時代の儒教と漢朝以降の儒教は性質が違います。孔子の儒教は道徳概念を説くのと同時に政治では「礼節」を主張しました。礼節は古今異義です、当時の礼節は周の宗法制で春秋五覇戦国七雄は全員が法家(韓非子が主に説く)の元に国を強めてきました。戦乱の世に過去の、良いとは言えない(周の滅亡の原因でもある)政策はを説いた孔子に賛同する君主はいません(教育者になった所以です)。そして、孔子は統治者は「仁」であるべきだと主張し、法家を用いて国を治める君主達からは厄介者とされました(法といっても現代のものとは全く違う、刑を用いて人を治めるものです)。漢以前、儒教は諸子百家のうちの冴えないひとつの学説だったのです。当時は儒学と呼ばれていました。 では、なぜ漢からは儒教と呼ばれ、国学までになったかというと董仲舒の働きが大きいです。董仲舒は「天人合一」を唱え皇帝に