台北市立動物園と迪化街めぐり 子連れ台湾#5 年越し台湾旅行5日目、レジャーや友人との食事を楽しむ日です。前日の様子はこちら www.oukakreuz.com 台北市立動物園へ パンダ館 パンダが見られるレストラン 迪化街へ 林茂森茶行でお茶を購入 小花園で刺繍グッズを購入 黒武士特色老火鍋で夕食 台北市立動物園へ 松…
■[雑記]誰が書いているか・何を書いているか suVeneのあれ: 文章から人格を読む人・読まない人 いずれにしても、組織的な場所や共同体ならばまだ理解できるが、不特定多数や社会的な場や公の場にまで拡張して考える価値観というのは、個人的にとても興味深い話だなーってことで、特にオチはない。 「組織的な場所や共同体」において「誰が書いているか」を重視することは必要な場合もあるけど、「不特定多数や社会的な場」でも同じようにする必要はないんじゃないか、という話、かな? 「不特定多数や社会的な場」=ネット、ということで話を進めると、政治的・組織的なしがらみがない場所で発言者を重視しすぎるのは、確かに勿体無いのかも。せっかくそういったものから開放された場なのだから、オフラインではできない議論・コミュニケーションをした方が有意義という気もする。 ただ思うのは、ある意見・主張があったとき、その記事を読ん
2007年01月05日 文章から人格を読む人・読まない人 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは 「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。 何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。 そのような文章で見られた特徴を挙げてみると ・ 初めて見て興味を持ったブログなどでは、プロフィールが欲しい ・ どのような背景を持つ人物なのか興味がある ・ その著者の持つ感情などを想像する などなど。まぁ、タイトルどおり文章から人格と背景を読むわけであり、同時にそれが面白いと感じるようである。そして、そのような人達は、自分自身もまたプロフィール欄をきちんと用意し、どのような背景を持ち、どのような感情を抱いて生活しているかということを徒然と記述していることが多い。 その事に気づいてか
「ウェブリブログ」は 2023年1月31日 をもちましてサービス提供を終了いたしました。 2004年3月のサービス開始より19年近くもの間、沢山の皆さまにご愛用いただきましたことを心よりお礼申し上げます。今後とも、BIGLOBEをご愛顧賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。 ※引っ越し先ブログへのリダイレクトサービスは2024年1月31日で終了いたしました。 BIGLOBEのサービス一覧
http://invisible.at.webry.info/200701/article_3.html 非常に耳に痛い話。 どうしてブログで「怒り」を表明するのか?について書く前に、まず、「人はなぜ怒るのか?」について考えてみます。 (1)自分が直接被害を受けて、抑えきれない怒りの情念が湧いてきたから。 たとえば、自分や家族が犯罪の被害にあったりした場合は、そりゃ「怒る」と思います。あんまり説明する必要はないでしょう。 (2)自分や家族が直接被害を受けたわけではないけれど、自分や家族も同じ被害に遭うことが容易に想像できる場合。 子供に対する性犯罪や無差別殺人(オウム事件や池田小事件など)は、これにあたります。被害者の立場に自分を置き換えて、あるいは、同じような状況に自分が置かれることを想像して怒るわけです。これはときに過剰な思い入れを生んでしまうことがありますが、ある意味「人間らしい怒り
そんなものがあるとは知らなかった。 ウィキペディアではこんな感じ。 →時計じかけのオレンジ - Wikipedia 削除された章 小説は21章から構成されるが、アメリカ合衆国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章が削除されて出版され、キューブリックによる映画も本来的の最終章を削除された版を元に作られた。映画化に際して一部のエピソードを省略したり複数のエピソードをまとめたりすることはよくあることだが、第21章があるか否かにより小説の印象は相当異なる。このため、映画版は原作者であるバージェスが意図しない終わり方をしている。 その後、アメリカでも第21章は復活して出版されるようになったが、日本語翻訳版ではバージェスの意図に反し第21章が省略されたままとなっている。 (太字は引用者=ぼく) アンソニー・バージェスはいつ死んだのか調べてみたら、1993年でした。 というわけ
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