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福島と人生に関するlaislanopiraのブックマーク (80)

  • 続・フクシマ「避難区域」にできたコンビニ:日経ビジネスオンライン

    地図の緑色で示した「避難指示解除準備区域」と、黄色の「居住制限区域」には、特別な許可がなくても日中は出入りができる。だが、地域住民であっても宿泊は許されていない。つまり、地図中の色が塗られた範囲ではもう3年半もの間、人が住んでいない。 伸び放題の雑草、でこぼこの道路。もともと自然豊かな土地柄ではあるのだろうが、避難指示区域内の荒れ果てた人家を見ると、その地の主が今や人間ではないことを思い知らされる。 避難区域内のコンビニ 浪江町に向かったのは、全域が避難区域に指定されている市町村としては事故後初めて、コンビニエンスストアが開業するからだった。8月26日、ローソン浪江町役場前店の正式オープン前日に開かれたセレモニーには、県の副知事や浪江町長、復興庁の浜田昌良復興副大臣などが出席した。 浪江町では原発事故後、2万1000人の住民全員が避難した。今も周囲に人気はなく、ローソンは店のすぐ隣にある役

    続・フクシマ「避難区域」にできたコンビニ:日経ビジネスオンライン
  • 福島原発事故:夫の後追い自殺、仮設住宅の87歳 - 毎日新聞

  • 「DASH村の父」 一生懸命なTOKIOに農業教えることを楽しんだ (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

    ときおり肩を震わせながら、TOKIOのリーダー・城島茂(43才)は、棺の中で安らかに眠る“DASH村の父”の顔を覗き込み、別れの言葉をかけながら大粒の涙を流していた。 6月9日、『ザ!鉄腕!DASH!!』(日テレビ系)の人気コーナー『DASH村』で、“農業の達人”としてTOKIOの指導役を務め、6日朝に急性骨髄性白血病のため亡くなった三瓶明雄さん(享年84)の通夜が福島市内の斎場で、しめやかに執り行われた。 200人ほどが集まった広い会場の祭壇には、山のようにかたどられた青々とした木々と、たくさんの白い花やひまわりに囲まれ、トレードマークの白い手ぬぐいを頭に巻き、青空をバックににっこりと笑顔を浮かべる三瓶さんの遺影が飾られていた。 会場へと続く通路には、何十枚もの写真が並べられ、そのほとんどが、三瓶さんの人生ともいうべき、農作業に勤しんでいる姿だった。 喪服姿でその会場に現れた城

    「DASH村の父」 一生懸命なTOKIOに農業教えることを楽しんだ (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース
  • DASH村「農業の達人」三瓶さん死去…84歳 (読売新聞) - Yahoo!ニュース

    テレビ系の番組「ザ!鉄腕!DASH(ダッシュ)!!」の看板企画「DASH村」で、農作業を指導してきた福島県浪江町の三瓶明雄(さんぺい・あきお)さんが6日、同県伊達市の病院で死去した。 84歳だった。 DASH村は、人気アイドル「TOKIO」のメンバーが浪江町の荒れ地に山村をつくり上げる企画で、2000年に始まった。地元で農業を営んでいた三瓶さんは開始時から指導役として登場し、米や野菜の作り方、ヤギの飼い方などをメンバーに伝授。「農業の達人」として慕われていた。 浪江町は東京電力福島第一原発事故で全域が避難指示区域となり、三瓶さんも福島市の借り上げ住宅に避難した。その後もメンバーと一緒に全国の優れた農産地を訪ねる企画などで番組に出演していたが、最近は体調を崩し、入退院を繰り返していたという。 告別式は10日正午、同市のさがみ福島ホール。喪主は長男の、美智子さん。

  • 福島をどう描くか:第2回 漫画「そばもん」 山本おさむさん | 毎日新聞

    漫画家はどう福島を描いたか。第2回は山おさむさん(60)のインタビューをお届けする。 山さんはの両親の実家があった縁で福島県天栄村に約10年前に家を買い、職場のさいたま市との往復生活を始めたが、3年前の東日大震災と東京電力福島第1原発事故で、天栄村に住んでいた家族を埼玉県内に避難させた。自主避難生活を約2年間続け、現在は往復生活を再開している。この間の揺れ動く気持ちや自宅の除染、天栄村の米農家の様子などを「今日もいい天気 原発事故編」(双葉社)にまとめた。 その後も福島県のについて継続的に取材を重ね、「ビッグコミック」(小学館)で連載中の「そばもん」では福島県産材と放射性物質の問題を正面から取り上げ、話題となっている。山さんは「福島県や福島産が危険か危険じゃないかといった議論は数値、データをベースにすべきだ」と話す。なぜ、福島での生活を再開したのか。福島とを巡る問題などを山

    福島をどう描くか:第2回 漫画「そばもん」 山本おさむさん | 毎日新聞
  • 福島第1原発での作業員“体験”を描く漫画『いちえふ』、原作者「デマは否定したい」

    東京電力福島第1原発で作業員として働いていた漫画家・竜田一人氏が描く原発ルポ漫画『いちえふ』。昨年、新人賞MANGA OPENの大賞受賞作として「モーニング」に掲載され、国内外で大反響を呼んだ作がついに単行化された。第1巻の発売に際して、竜田一人氏に取材する機会を得た。

    福島第1原発での作業員“体験”を描く漫画『いちえふ』、原作者「デマは否定したい」
  • 母は「自殺してやる!」と包丁を喉に当てて叫んだ→民主党まで - はてな村定点観測所

    2014-05-16 母は「自殺してやる!」と包丁を喉に当てて叫んだ→民主党まで 私が子供の頃、福島の実家で父と母はあまり仲が良くなかった。 父と母が喧嘩をすると、よく母は包丁を取り出して自分の喉に当てて「自殺してやる!」と叫んでいた。でも当に喉に包丁を刺すことはなかった。 父はそんな母が嫌いで、機嫌が悪くなると、よくちゃぶ台で星一徹をやっていた。夕べていたテーブルをひっくり返すのだ。畳の床がご飯や味噌汁やおかずでグチャグチャになった。母は激怒して出ていって、グチャグチャになった畳は私が黙って雑巾で掃除していた。 (「巨人の星」) 子供の頃なのでよく憶えていないが、学校に勤めていた父が同じく学校に勤めていた女性と仲良くなったことがあった。母は子供の私を車に乗せて、その女性と会いに行かないか探しに行った。そこで何を見たのかは憶えていないが、母が帰りに泣きながら車を運転したのは憶えてい

    母は「自殺してやる!」と包丁を喉に当てて叫んだ→民主党まで - はてな村定点観測所
  • 日中の裏の裏を知る歌舞伎町案内人の決断

    今週のコラムニスト:李小牧 〔3月11日号掲載〕 歌舞伎町案内人は先月、日を初めて訪れた中国人学生50人を福島県に「案内」した。中国留学の経験のある日人学生が企画した「がんばれ福島、がんばれ日中」ツアーに同行したのだ。中国人に被災地の現状を知ってもらうため、私はこれまで何度も同種のツアーに参加してきた。福島県訪問は震災後3回目だ。 今回驚いたのは、福島県産農作物の風評被害の深刻さ。訪れた福島県農業総合センターはもともと農業関係の試験研究機関だったが、今では仕事のかなりの部分が放射線量の測定で占められている。実際、場所によっては福島県内の放射線量は上海より低く、出荷される農作物は安心してべることができる。ただ、そう受け止めることができない人は今も多い。 実はわが中国もその1人で、福島から持って帰ったイチゴを息子にべさせようとしたら、「絶対ダメ!」と激怒した(実際にべさせたら息子

  • 『記者たちは海に向かった』 - 半径10kmのジャーナリズム - HONZ

    記録を残すとは、時に残酷なものである。 書の表紙をめくると、そこには一枚の写真が掲載されている。カメラに向かって微笑む、福島民友新聞の6人の記者たち。撮影されたのは、2011年3月9日。後方には激震と津波によって後に消失してしまう「ろうそく岩」もそびえ立つ。そして6人の運命が、やがてジグソーパズルのようにバラバラに引き裂かれていくことを、彼らはまだ知らない。 記録を残すとは、時に希望を生み出す。 2011年3月12日の福島民友新聞の社説は、このような書き出しで始まる。 <私たち福島県民にとって、これまでに経験したことがない、想像を絶する揺れだった。> 一次資料もなく、被害状況も分からず、周囲が安否確認をしているさなかに書き出された文章は、助け合い、支え合うことへの呼びかけを目的とし、多くの被災者の元へと届けられた。 だが、このわずか3日ほどの間に、福島民友新聞の中では想像を絶するドラマが

    『記者たちは海に向かった』 - 半径10kmのジャーナリズム - HONZ
  • 原発事故による「ふるさとの喪失」は償えるのか/除本理史 - SYNODOS

    福島原発事故による避難者数は、震災発生から3年が経とうとする今も、約14万人にのぼる(2014年1月末現在)。事故後、9つの町村が役場機能を他の自治体に移転し、広い範囲で社会経済的機能が麻痺した。一部の自治体は、役場機能を元の地に戻しつつあるが、住民の帰還は見通しがたい。 筆者は2011年5月から、共同研究者とともに原発事故被害の実態調査を開始した。それまでの公害問題研究の経験を、少しでも活かせないかと考えてのことである。同年7月には、福島県内外で避難者の方々からの聞き取りをはじめたが、ほどなく、国の原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)が、事故被害のうち賠償対象となる最低限の範囲を示す「中間指針」を公表した(8月5日)[*1]。 その内容は、最低限の指針とはいえ、避難者から聞かれる被害実態とあまりに隔たっていた。とくに実感されたのは、「ふるさとの喪失」というべき重大な被害が等閑視されているこ

    原発事故による「ふるさとの喪失」は償えるのか/除本理史 - SYNODOS
  • なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか/『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー - SYNODOS

    福島第一原発事故から3年が経とうとし、今もなお10万人以上が避難生活を続けている。今、原発避難をめぐり何が起こっているのか。社会学者と被災当事者の21時間にも及ぶ議論を基に、『人間なき復興』(明石書店)が昨年11月に上梓された。今回は、共著者の一人で、被災当事者である市村高志氏に話を伺った。(聞き手・構成/山菜々子) ―― 市村さんは震災以前どのような生活をされていたのでしょうか。 震災が来るまで、私は福島県富岡町でパソコンの修理や業務システムの構築、生損保の保険代理店などの仕事をしていました。震災当時、中学生の子どもが2人と小学生が1人。私の年老いた母とも同居して6人家族で暮らしていました。3月11日はちょうど長女の中学校の卒業式でした。地震が起きた時は帰宅途中で、ちょうど買い物に立ちよった店の駐車場にいました。 そして、私達は訳も分からず「着の身着のまま」避難しました。私達だけではな

    なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか/『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー - SYNODOS
  • ほぼ日刊イトイ新聞 - 書きかけてやめた、 福島のことを、もう一度。

    震災からようやく1年が過ぎようとしていた 今年の3月5日、案内されて、 福島県の海沿いにあるいくつかの町を訪れた。 もう、4ヵ月以上が経ってしまった。 取材を終えた日、 見たこと、聞いたこと、感じたことを 大急ぎで原稿にまとめて、 一週間後にせまる「3月11日」に掲載しようと思った。 そうでもしないと書けない、と直感したからだ。 けれども、できなかった。 落ち着いてからゆっくりまとめよう、と、 ずっと思っていたけれど、 それもうまく運ばなかった。 何度も書きかけてやめた、 あの日の福島でのこと。 なんのきっかけがあるわけでもないけれど、 やっぱり書くことにする。 冒頭にそうでも書かないと、書きはじめられない。 2012年3月5日。 震災からようやく1年が過ぎようとしていたころ。 福島はまだまだ寒く、 雪ともみぞれともつかない冷たいものが 朝からずっと降っていた。 糸井重里がツイッターを通じ

  • 福島にひとり生きる男の、愛と憎しみの2年間

  • スッキリ!する話に潜む毒

    「日生態系協会」という公益法人があるのだそうで、そこの会長に当たる人物が、ちょっと困った発言をしている。以下、引用する。 「――(略)――日は福島がそうですが、これからですね内部被ばく、これがどうしようもないんでございまして、これからの放射能雲が通った、だから福島ばかりじゃございませんで栃木だとか、埼玉、東京、神奈川あたり、だいたい2、3回通りましたよね、あそこにいた方々はこれから極力、結婚をしない方がいいだろうと。結婚をして子どもを産むとですね、奇形発生率がどーんと上がることになっておりましてですね、たいへんなことになる訳でございまして。――(略)――」 「えっ?」 と言ったきり、言葉が続かない。 どういうつもりなんだ? 経緯を振り返ってみよう。 新聞各紙が伝えているところを要約すると、状況はこんな感じだ。 発言の主は、公益法人「日生態系協会」の会長である池谷奉文氏。7月9日に「日

    スッキリ!する話に潜む毒
    laislanopira
    laislanopira 2012/08/31
    講演芸人/ 死の効率化と死の美化
  • 東京新聞:26年目の訂正 「原発はいらない」 双葉町の標語考えた少年後悔:社会(TOKYO Web)

    「破滅」と書かれた画用紙を看板の手前で掲げて、自ら25年前の標語を訂正した大沼勇治さん=福島県双葉町で 「原子力明るい未来のエネルギー」。福島県双葉町の中心街の入り口に掲げられた看板の標語だ。二十五年前、当時小学六年の大沼勇治さん(36)が町のコンクールに応募し、選ばれた。大沼さんは、一年四カ月の避難生活で「脱原発」を確信した思いを伝えたいと、今月十五日、一時帰宅した際、自ら標語を「訂正」した。 大沼さんは東京電力福島第一原発の事故後、身重のせりなさん(37)と地元を離れ、現在は愛知県安城市で避難生活を送る。町が原子力標語を公募したのは一九八七年。原発が町の未来をつくると信じた言葉が入選。第一原発から約四キロの自宅近くに鉄製の看板が電源立地交付金で建てられ、誇らしかった。 大学を出て就職などし、二十九歳で帰郷。不動産会社に勤める傍ら、看板の横にある土地にオール電化のアパートを建てて、東電

  • 激白!吉田昌郎 福島第一原発前所長「私のがんはステージⅢ」「福島の人たちへのサポートを死ぬまでしていきたい」来月の手術を前に決意を語った(フライデー) @gendai_biz

    「私のがんは、ステージⅢだと医者からは言われています。今となっては、淡々と入院して、手術をするだけですよ」 衝撃の緊急入院から、はや2ヵ月。誌記者にそう語ったのは、東京電力福島第一原発の前所長、吉田昌郎氏(56)である。入院していたとは思えないほど顔色は良く、ふっくらとした様子。自らの病状をストレートなもの言いで話す〝吉田節〟も健在である。優しい目元の、以前と変わらない吉田氏がそこにいた。 吉田氏は、昨年3月の東日大震災に伴う福島第一原発事故の際、所長として菅直人首相(当時)や東電店の指示に逆らい、原子炉への海水注入を開始し、原発のさらなる崩壊をい止めた。事故後も8ヵ月にわたって、第一原発の免震棟に籠もり、事故の収束のために奔走し続けたが、衝撃が走ったのは、昨年の11月28日のことだった。東電が吉田氏の緊急入院を発表したのだ。当初は「体調不良」とのみ発表されたため、病名や容体に関し

    激白!吉田昌郎 福島第一原発前所長「私のがんはステージⅢ」「福島の人たちへのサポートを死ぬまでしていきたい」来月の手術を前に決意を語った(フライデー) @gendai_biz
  • 「私だけ生き残って、ごめんなさい」:日経ビジネスオンライン

    気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 東日大震災後1か月から、自発的に被災者支援ボランティアとして被災者の「心のケア」を行っている若い産業カウンセラーがいる。 東京消防庁秋川消防署で総務課に勤務する産業カウンセラーのAさんだ。 ほぼ毎月1回、多い時には2回以上、被災地に行っているAさんは福島県いわき市の出身である。震災が起きて間もなく、3月半ばにはいわき市の親族5家族が避難して東京にやって来た。Aさんの実家は半壊した。 状況調査と心のケア 「故郷を救いたい」という思いで、産業カウンセラーAさんは支援活動を始めた。今月3日にも福島に行った。震災1か月後の被災地での出来事と、これまでに行った被災者支援ボランティアを紹介しよう。 Aさんの活動は、大きく分けて2つある。 1つは、ボラン

    「私だけ生き残って、ごめんなさい」:日経ビジネスオンライン
    laislanopira
    laislanopira 2011/12/22
    こころにあるだけで実現できていない思いを実現しに行った
  • 福島第1原発:警戒区域に独り 井戸水とろうそくで生活 - 毎日jp(毎日新聞)

    松村さんが餌を与え続けている飼い主を失った犬たち=福島県富岡町で2011年12月9日、松村直登さん提供(一部画像を処理しています) 東京電力福島第1原発事故で立ち入りが規制されている警戒区域(半径20キロ圏内)の福島県富岡町で、農業、松村直登さん(52)が自宅に一人とどまり続けている。警戒区域の外で毎日新聞のインタビューに応じた松村さんは「命を守るために法律で避難させていることは理解できる。しかし、何十年も避難するぐらいだったら、自分は短い間でも生まれ育った富岡で過ごしたい」と語った。【沢田勇】 ◇「非難はわかるが短い間でも富岡で過ごしたい」 松村さん宅は原発の南西約12キロに位置。富岡町内の残留者は一人だけという。震災から約1カ月後、松村さんも同県郡山市内に一時避難した。だが、すし詰め状態で避難所に横たわる被災者を見て「自分には無理だ」と思い、3日ほどで自宅に戻った。「『自分勝手だ』と非

  • asahi.com(朝日新聞社):「ヒロシマ」撮った90歳、最後の仕事は「フクシマ」 - 社会

    印刷 関連トピックス原子力発電所福島菊次郎さん=東京・九段、高波淳撮影原爆ドームの前で暖をとる人たち=1946年ごろ、福島菊次郎さん撮影津波に流された後、集められた墓石=9月17日、福島県南相馬市、福島菊次郎さん撮影  約65年前、広島を撮った写真家は福島を「最後の仕事」に選んだ。被爆者や「軍事大国・日」を克明に写した報道写真家・福島菊次郎さん(90)が東日大震災で被災した福島県を取材し、「遺作集」を作る準備をしている。福島さんの姿を追った映画の制作も進んでいる。  福島さんは震災前から「原発と原爆は同義語。事故が起きれば核戦争にも匹敵する被害が出る恐れがある」と、著書「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘(うそ)」などで警鐘を鳴らしてきた。  これまでに胃がんや前立腺がんを病み、体重は37キロ。その体で9月、約半世紀使い込んだニコンFなど2台のカメラを持ち、津波に押し流された墓石が集められ

  • また福島第一原発に戻りたい:日経ビジネスオンライン

    「原発に最後のご奉公をしたい。要請があったらまた行きたい。というか、また行きます。ただ、今は左の肩が動かないので、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。行けばみんながサポートしてくれるとは思うが、立場上、作業員の方と同じ条件で原発に入らないといけないと思う。完全に肩を治して、また原発に入ります」 律儀な性格をそのまま表すように、6畳間のベッドの脇に居ずまいを正し、熱く「原発への思い」を語る。その人は但野(ただの)勝郎さん、68歳。 震災当時、富岡町在住で、同町の原発関連会社で東京電力福島第一原子力発電所、第二原子力発電所の現場の安全を守る災害防止担当者を長く務めており、3月11日の地震のその時も、福島第二原発の現場に入っていた。震災後は郡山市の避難所で避難生活を始めた。避難所閉鎖によって、同市内の宿泊施設へ移動。会社も解散になった現在は、いわき市の借り上げアパートで避難生活を送っている。

    また福島第一原発に戻りたい:日経ビジネスオンライン