![坂口博信が自作ゲームからFINAL FANTASYに辿り着くまで - ニコニコ自作ゲームフェス](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/a92346913f0b144389660a6db952a81354aadc62/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fresource.video.nimg.jp%2Fweb%2Fscripts%2Fniconico_tmp%2Fstatic%2FReKariOGP.png%3Fv%3D2)
【ほぼ全文公開】ドラクエ開発者、ファミ通元編集長、シュタゲ作者が5時間に及ぶ激論――ニコニコ自作ゲームフェス4最終選考会の内容を掲載【前編】:ニコニコ自作ゲームフェス 2014年11月30日、ドワンゴが主催する「ニコニコ自作ゲームフェス4」の授賞式が行われた。 ニコニコ自作ゲームフェスでは、自作ゲームクリエイターの応援として多様な価値観の軸を可視化するという視点から、さまざまな法人・団体から賞を募っており、今回の4では実に29もの協力団体賞が設定されている。その日は、協力企業も訪れて、各々の受賞者に授与が行われた。 この記事は、そんな「自作ゲーム」の価値軸の一つとして、niconicoが授与する大賞を決定した最終選考会の内容を、ほぼ全文公開したものである。前編と後編の二部構成になっているので、あわせてお読みいただければと思う。 2014年末に公開された前半では、「自作ゲームフェス4」最終審
「ニコニコ自作ゲームフェス」は、インターネットを舞台に活躍する、広く自作されたゲームのクリエイターを応援するゲーム投稿のコンテスト。4回めとなる今回は、過去最多となる400以上の作品が集結、審査員からはクオリティの高さに驚きの声が上がり、大賞に加えて特別に審査員による個人賞も贈呈されたのであった。 ――さて、それから時を遡ること1ヶ月半前の10月某日、経営統合されて間もないKADOKAWA・DWANGOのオフィスがある新歌舞伎座タワーの一角に、日本のゲーム業界を代表する錚々たる面々が集まって、なんと5時間にわたって議論が繰り広げられていた。 彼らの名前は、スパイク・チュンソフト代表取締役会長の中村光一氏、株式会社KADOKAWA常務取締役にしてファミ通グループ代表の浜村弘一氏、そしてMAGES.代表取締役社長の志倉千代丸氏。そんな彼らが語り合っていたのはグループの経営について……では、なか
この連載では、ドラゴンクエスト開発者の中村光一さんや、ポケットモンスター開発者の増田順一さんに、かつて彼らがどんな風にゲームを作ってきたかを「自作ゲーム」という観点からうかがってきた。 今回は、いわばその「番外編」である。初めてパソコンに感動した世代の学生が、現在の自作ゲームと変わらぬ開発人数だったファミコンの時代を経て、ゲームが世界規模の巨大ジャンルに発展していくまでを目にする――そんな当時の共通体験を、開発者に最も近いところにいた"最強のウォッチャー"の視点から語ってもらったのが、このインタビューである。 また今回は、ファミ通編集部のご厚意で当時の誌面を見せていただきながら、往年の名物企画たちの裏側も聞かせていただいた。しばしば言われるように、日本の雑誌カルチャーは、単に情報を伝える媒体ではなく、目利きとしての編集者の企画力と職人技で、カルチャーそのものを育ててきた存在でもあった。それ
古くは80年代のマイコン雑誌に掲載されたコードに始まり、パソコン通信や草の根ネットでの公開、コンシューマー機でも手軽にRPGを作れる『RPGツクール』の登場、そしてそれらを拡散できるインターネットの普及……マイコン以降の日本のコンピュータ文化は、個人による自作ゲームが世界に向けて拡散される環境を整えてきた歴史でもある。 その意味でここ、ニコニコ動画もまた自作ゲームに大きな影響を与えてきた。ゲーム実況者たちが自作ゲームを積極的に紹介してきたことで、アマチュアの作ったゲームを楽しむユーザーが、マニアから一般ユーザーへと解き放たれたのだ。 例えば先日、映画『青鬼』の制作者に取材した際に、彼らは小学生が親子連れでこぞって映画館を訪れていたことに衝撃を受けていた。だが、こうして『青鬼』が映画化されるような状況は――ニコニコ好きならよく知っているように――明らかに2009年のボルゾイ企画のゲーム実況か
80年代末に発売された『クインティ』というファミコンソフトをご存知だろうか? このゲームの開発には、一つの伝説がある。それは、当時日本中のゲーマーの間で話題だった、超マニアックなゲーム攻略情報のミニコミ誌を作っていたアマチュア連中が、あまりにゲーム熱が嵩じたあげくに自ら勝手にファミコンソフトを、それもパーツから「自作」してしまったというのである。 ゲーム業界が驚異的な勢いで伸びはじめたこの時代、ゲームの周りには続々と才能も熱意もあふれる若者が集結してきていた。しかしさすがに、そんな話はこの『クインティ』以外には後にも先にもなかった。このゲームを売り込まれたナムコの担当者も、版権を獲得する際に、あわよくばこれに続く若者がいれば……と思ったというが、当然ながらそんな連中が現れることは二度となかったのだ。 その後、この『クインティ』の制作者たちは会社を立ち上げて、本格的にゲーム制作に乗り出してい
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