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2009年8月23日のブックマーク (2件)

  • 漢字の よみまちがいで ひとを ばかにする反動保守を ゆるさない。 - hituziのブログじゃがー

    何度か かいてきたので、ながい文章にはしない。 それが だれであろうと、漢字を よみまちがえたなどといって ばかにするのは、最悪だということ。日語社会を、さらに いごこちの わるいものにする行為だということ。 麻生(あそう)は 漢字が よめないなどと いっている ひとは、思想的に あそうに ちかづいている。わたしは、あそうと ともだちになりたいとは、ぜったいに おもわない。だからこそ、「漢字の知識」で あそうを 批判するつもりはない。この漢字至上主義の 社会を 特権的に いきてしまっているものとして、漢字という障害を 批判する。それこそが、「あそう的なもの」と おさらばする道だ。 わたしは あそうが きらいだ。けれども、漢字の知識で あそうを ばかにする ひとは信用しないし、ゆるさない。そういう人物が 「自分は社会問題を かんがえている」と おもっていられる日社会は、なるほど ひどいも

    漢字の よみまちがいで ひとを ばかにする反動保守を ゆるさない。 - hituziのブログじゃがー
  • 「11にんめ」を めぐる ふあん - やねごんの にっき

    ラカン的な大文字の「他者」が存在不可能であるのと同様に、社会は全体性が不可能であることとしてのみ存立可能である*1。 にんずうを かぞえるという こうい(行為)には、その かぞえる ひと じしんを ふあんに させる なにかが あるように おもいます。 「ひとり、ふたり、さんにん……」と その ばに いる ひとの にんずうを かぞえるとき、わたしは ひとり ひとりの かおなどを みながら、もじどおり 「あたまかず」を かぞえてゆく わけですが、そうやって かぞえている わたし じしんの 「あたま」を わたしは みることが できません。つまり、わたしは、わたし じしんが ぞくしている その ばの しゅうだんを、「ぜんたいせい(全体性)」として ちょくせつ しや(視野)に おさめることは できないという ことです。その いみで、じぶん じしんを ふくむ しゅうだんの 「ぜんたいせい」とは、そうぞ

    「11にんめ」を めぐる ふあん - やねごんの にっき