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ブックマーク / bushoojapan.com (13)

  • 『光る君へ』を読み解くカギである「漢詩」は日本にどう伝わりどう変化していった?

    大河ドラマ『光る君へ』を見ていると、至るところに漢詩・漢籍が登場します。 劇中で非常に重要な存在であることは一目瞭然であり、視聴者の皆さんも国語(漢文)の授業で一通り習ったと思いますが、ドラマの第9回放送で不思議な場面があったのを覚えていらっしゃいますか。 まひろの父・藤原為時が謎の漢籍朗読を始め、花山天皇が興味なさそうに聞き流していたのです。 このシーンの不思議なところは、大きく2点あります。 他の大河ドラマでは見られない何とも奇怪な描写であり、漢詩に関する興味深いシーンは第10回放送でも続きます。 藤原道長がまひろに和歌を贈ったのに対し、まひろは漢詩で返してきたのです。 途方に暮れた道長が、その意味を藤原行成に尋ねると、行成は気まずそうに「漢詩ということはフラれているのではないか?」と告げていました。 あれにはどんな意味があったのか。 いったい日人にとって漢詩とは何なのか。 そもそ

    『光る君へ』を読み解くカギである「漢詩」は日本にどう伝わりどう変化していった?
  • 酒乱・暴力・乱心で取潰しになった12名の大名「藩主はつらいよ」

    「ストレス社会」と言われるようになって久しいです。 あたかも現代に特有の言い方ですが、それでは昔の人にはストレスがなかったのか?といえば、もちろんそんなことはありません。 万治元年(1658年)9月10日、松下長綱が亡くなりました。 磐城国田村郡の三春藩主(福島県)だったのですが……亡くなるまでに一悶着あったと伝わります。 今回は長綱さんをはじめ、江戸時代のストレスに対処しきれなくなった(かもしれない)藩主たちに注目してみましょう。

    酒乱・暴力・乱心で取潰しになった12名の大名「藩主はつらいよ」
  • 家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察

    天正7年(1579年)9月15日は、松平信康が自刃した日。 徳川家康と、その最初のである築山殿(つきやまどの・瀬名姫)との間に生まれた大事な嫡男ですね。 そして徳川にとっては、後味の悪さでは別格なエピソードの中心人物でもあります。 いったい何が起きたのか? 今回は信康の生涯を追いかけるカタチで、その最期にも触れてみましょう。 清洲同盟を機に信長の娘と家康の息子信康は、永禄2年(1559年)3月6日、徳川家康の長男として駿府で生まれました。 母は築山殿(瀬名姫)。 このころ家康は今川家の人質だったため、信康も同じような扱いだったと思われます。 【桶狭間の戦い(1560年)】で家康が出陣していた頃は、おそらく今川家の拠である駿府にいたのでしょう。 その後、人質交換により岡崎城へ移りました。 ※以下は桶狭間の戦いと今川義元の解説記事となります

    家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察
  • 島津に暗君なし(バカ殿はいない)ってマジ?薩摩藩主全12代まとめ

    島津四兄弟をご存知でしょうか? 戦国期の島津家当主だった島津貴久。 その貴久から生まれた男兄弟4人のことで、上から

    島津に暗君なし(バカ殿はいない)ってマジ?薩摩藩主全12代まとめ
  • 史実の三浦義明は89歳で孫の重忠に攻められ討死~鎌倉殿の13人

    三浦義明(よしあき)という平安末期の武士をご存知でしょうか? 以前なら、即座に「誰それ」と言われたかもしれませんが、今はもう違うかもしれません。 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でインパクトのある死が伝えられたのです。 佐藤B作さんが演じた三浦義澄の父であり、義澄や義村を逃がすため、城を枕に討ち死にしたのでした。 それが治承4年(1180年)8月27日のことで、事件のポイントは大きく二つ。 一つは平氏という血筋だということ。 もう一つは平氏でありながら源氏と深い関わりを持っていたことです。 稿で三浦義明の生涯と共に確認してまいりましょう。

    史実の三浦義明は89歳で孫の重忠に攻められ討死~鎌倉殿の13人
  • 毛利隆元(元就の長男)失って初めて実感する跡取りの偉大さ優秀さ

    1563年9月1日(永禄6年8月4日)は、毛利隆元が亡くなった日です。 中国地方の覇者・毛利元就の長男ですね。 この人について知られていることというと、元就よりも早く亡くなったことや、なかなか卑屈な手紙・言動を残していることくらいでしょうか。 そのせいで「根暗」「暗愚」との印象も持たれがちですが、生涯を追いかけて行くと、実はそうでもなかったりします。 当はどんな人だったのでしょうか。 ※以下は毛利元就の生涯まとめ記事となります

    毛利隆元(元就の長男)失って初めて実感する跡取りの偉大さ優秀さ
  • 西国一の戦国大名だった大内義隆がなぜ滅んだ?45年の生涯まとめ

    ①のパターンは、北条早雲に始まる後北条氏や、美濃の斎藤道三で知られる斎藤氏。 ②は武田信玄の武田氏や、朝倉義景の朝倉氏など。 ③は細川氏や、その他多くの家……といったところでしょうか。 一族が細分化されるなどして、いくつかのパターンが重なるケースも見受けられます。 今回は②のケースに当てはまる家のうち、なんとも悲しい逸話を含んでいる大内義隆(よしたか)に注目。 天文20年(1551年)9月1日が命日となります。

    西国一の戦国大名だった大内義隆がなぜ滅んだ?45年の生涯まとめ
  • なぜ江戸城には天守閣がない?大火後に再建されなかった納得の理由

    万治二年(1659年)9月1日、火災により焼失していた江戸城天守閣の再建工事が中止になりました。 主導したのは保科正之。 上杉家の改易に「待った!」をかけてくれた人です。 まずはこの方の経歴をざっくり見ておきましょう。 ※以下は「保科正之」関連記事となります

    なぜ江戸城には天守閣がない?大火後に再建されなかった納得の理由
  • 源頼家はなぜ北条に暗殺された? 風呂場で急所を斬られた頼朝の嫡男

    大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で源頼朝と北条政子の間に生まれた男児・源頼家。 劇中では何かとトラブルを起こす二代目鎌倉殿として描かれていましたが、史実でも元久元年(1204年)7月18日に、享年23という若さで亡くなっています。 これが非常に不可解な死で……。 鎌倉幕府の公式記録『吾鏡』には 程度で済まされているのです。 吾鏡は一貫して「北条氏サイコー」というスタンスで書かれているため、同家にとって不都合なことは全て削除されているんではないか?という指摘があったりして、頼家の暗殺もその一つだといわれています。 つまり北条氏=母親・北条政子の実家と仲が悪かったということになるのですが、それにしたって何で殺されることになったのか。 頼家の生涯と共に振り返ってみましょう。

    源頼家はなぜ北条に暗殺された? 風呂場で急所を斬られた頼朝の嫡男
  • 戦国島津家ドロドロの内紛「庄内の乱」関ヶ原直前に起きた薩摩の大乱

    慶長四年(1599年)3月9日は、島津忠恒(ただつね)が筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を斬殺した日。 後に【庄内の乱】という一大騒動に発展しました。 時は関ヶ原の戦い前年という大事な時期で、しかも舞台は九州の雄・島津家です。 どう見ても穏やかではありませんが、一体何が原因で、このようなことが起きたのでしょうか。 主の島津家よりでかい伊集院家のお屋敷in伏見事の発端は、豊臣秀吉の存命中に遡ります。 文禄三年(1594年)に島津領内で検地が行われた際、伊集院家は秀吉からお墨付きをもらって、8万石と都城を与えられました。 それまで城主を務めていた北郷家の当主が幼かった上、朝鮮出兵で兵を出し渋って減封・移封を受け、その後釜として入った形です。 ついでに、秀吉は忠棟を自分の家臣同然に扱いました。 来なら秀吉にとっては陪臣(家臣の家臣)とするべきところを、頭を飛び越えてしまったことにな

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  • まんが日本史ブギウギ最終回!江戸時代を本当に終わらせたのは土方さん?

    歴史を動かすのは一体誰なのか? 教科書や映画だけを見れば、時代を動かす著名人・権力者こそが“歴史”であり、まるで英雄の思い通りに動いている気がしますが、果たしてそうでしょうか。 確かに彼らは、教科書の中では中心にいます。 しかし、その生活を支えてきたのは庶民層であり、何をするにしても全体の支持がなければ、現実に事は動きません。 面白いのは、ときにその庶民層から英雄が出て、時代が動くことでしょう。 最もよく知られているのが豊臣秀吉。 戦国時代を終わらせた農民層出身の英雄です。 そしてその後に続く江戸時代を終わらせたのは? 教科書的には【大政奉還】の徳川慶喜が正解かもしれませんが、日が近代へ向かうにあたって【戊辰戦争】という最終権力闘争があり、それに終止符を打ったのは土方歳三ではないでしょうか……なんてことを考えながら、マンガ『日史ブギウギ』今日で最終回!

    まんが日本史ブギウギ最終回!江戸時代を本当に終わらせたのは土方さん?
  • 初戦で敗北の頼朝を助けた土肥実平~西国守護を任される程に信頼され

    大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、地味だけど、お茶目な存在で話題となった土肥実平(どひ さねひら)。 源頼朝が「実平をいちばん頼りにしていた!」と芝居っ気たっぷりにウソをつき、涙を浮かべ二人で抱き合うなど、北条義時が唖然とするほど白々しい場面もありましたが、実はあのシーン、まんざら三谷幸喜さんのおフザケとも言い切れません。 というのも、史実での土肥実平は、石橋山の戦いで頼朝らの命を救う決断をして、その後、重用されるのです。 実に、三カ国の守護に任じられるほどで、他の有名武士に比べて現在の知名度はいささか低すぎる気もします。 では実平は、具体的にどんな働きをしたのか? 史実の土肥実平を追ってみましょう。 伊豆に近い土肥実平の地元土井実平の生年は不明。 もともとは桓武平氏(平高望-平良文)の流れを汲む土肥氏の出身で、相模国の土肥郷(現・神奈川県足柄下郡)に根ざしていました。 以下の地図でも一目瞭

    初戦で敗北の頼朝を助けた土肥実平~西国守護を任される程に信頼され
  • 史実の仁田忠常は笑うに笑えない最期鎌倉殿の13人ティモンディ高岸

    大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、お笑い芸人・ティモンディの高岸さんが演じていた仁田忠常。 建仁3年(1203年)9月6日はその命日です。 ドラマでは、源頼家と北条家の軋轢に苛まされ、自ら頸動脈を切って自害する――そんな衝撃的で律儀すぎるシーンが話題となりましたが、だからこそ気になるのが史実における最期でしょう。 実は彼、史実でも笑うに笑えない最期を迎えていまして……。 一体どんな展開だったのか? 仁田忠常の生涯を振り返ってみましょう。 最古参の御家人・仁田忠常仁田忠常の名字は「新田」や「日田」と書くこともあります。 父母の素性は不明で、伊豆国仁田郷(静岡県田方郡)の人だったこと、そして仁安二年(1167年)生まれだということは判明。 そこから幼少期の記録が飛んで、歴史に登場するのは治承四年(1180年)です。 【石橋山の戦い】において、頼朝に従っていたとされていて、御家人の中では最古参とい

    史実の仁田忠常は笑うに笑えない最期鎌倉殿の13人ティモンディ高岸
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