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家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察
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家康の長男・松平信康はなぜ自害へ追い込まれた?謎多き諸説を考察
天正7年(1579年)9月15日は、松平信康が自刃した日。 徳川家康と、その最初の妻である築山殿(つきやま... 天正7年(1579年)9月15日は、松平信康が自刃した日。 徳川家康と、その最初の妻である築山殿(つきやまどの・瀬名姫)との間に生まれた大事な嫡男ですね。 そして徳川にとっては、後味の悪さでは別格なエピソードの中心人物でもあります。 いったい何が起きたのか? 今回は信康の生涯を追いかけるカタチで、その最期にも触れてみましょう。 清洲同盟を機に信長の娘と家康の息子信康は、永禄2年(1559年)3月6日、徳川家康の長男として駿府で生まれました。 母は築山殿(瀬名姫)。 このころ家康は今川家の人質だったため、信康も同じような扱いだったと思われます。 【桶狭間の戦い(1560年)】で家康が出陣していた頃は、おそらく今川家の本拠である駿府にいたのでしょう。 その後、人質交換により岡崎城へ移りました。 ※以下は桶狭間の戦いと今川義元の解説記事となります