大学時代の前半、現地で交流の少ないイスラエルとパレスチナの若者を日本に招き、新潟・長野・東京で一ヶ月ほどの平和会議を主催したことがあった。 その会議は成田空港でイスラエル人とパレスチナ人が泣きながら別れを惜しむほど、成果は出たのだけれども、会議最後の一週間、東京滞在は大変だった。 大変だった、というのは「イスラエル人とパレスチナ人がケンカしたから」ではない。 彼らが六本木で毎晩遊びまわっていたからだ。 「団体を支援して下さった方々のことを考えて欲しい」と僕は彼らに伝えたが、「東京に来たのに何故遊ぶ時間をくれないんだ。」と彼らは逆に怒っていた。 (一応補足しておくと、今でも彼らとの交流は続いていて、当時のことは笑い話になっている) ***** 何度かこのブログに書いているけれども、バングラデシュの娼婦街に滞在を始めた当初、僕は現地のローカルNGOでインターンとして働いていた。その中で、娼婦街