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ブックマーク / garegesale.hatenablog.com (2)

  • 「第三の道」と社会の変容 ──社会民主主義の「思想」的危機をめぐって─ 齋藤純一 - Garege Sale

    はじめに 1990年代後半、ヨー口ッパでは社会民主主義を標榜する政党が相次いで政権に復帰するという動きが見られた。96年イ夕リアの 「オリーブの木」政権、97年イギリスのブレア政権、同年フランスのジョスパン政権、 98年ドイツのシュレーダー政権などがそうである。社会民主主義あるいは中道左派は、それ以来比較的安定 した力を示し──たとえばイギリスのニュー・レイバーは2001年総選挙でも保守党に圧勝した──、70年代末から続いたネオリべラリズムの時代に終止符を打ったかのようにも見える。しかし、このように社会民主主義が政権を取り戻したということは、それが思想的にも再生したということを意味するだろうか*1。 周知のように、T・ブレアやG・シュレーダーの掲げる「第三の道」あるいは「新しい中道」がサッチャーやコールの時代のネオリべラリズムとどれほど異なっているかについては、すでに多くの疑念が提起されて

    lotus3000
    lotus3000 2011/08/18
  • 「知のあり方」について──『オリエンタリズム』の視点から 近藤紀宏 - Garege Sale

    序 21世紀を迎え、20世紀を振り返ればまさに「〈西洋〉*1の時代」と捉えることが最もこの世紀の質を明確にすると考えられる。また、この状況は「知」なるものを語る上でも妥当するだろう。この近代的な「知」とは即ち、前近代的な「神の視点」を越えた「人の視点」から「知」を語ることであり、こうした知の生産様式をいち早く確立した西洋の卓越かこの「知」を語るなかでも見出すことが出来るといえるだろう。 こうした中で、エドワード・W・サイードが著書『オリエンタリズム』や以後に展開した西洋批判は、この「知」を語る中でも画期的といえるものである。そこで、稿ではこのサイードの主張を出発点とし、より深く、「知のあり方」そのものについて考察したい。 以下、第1章では、オリエンタリズムそのものに関する検討を行う。オリエンタリズムはサイードか主張するように、知がひとつの完結し、体系だった様式として規定出来る(第1節)

    lotus3000
    lotus3000 2011/06/29
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