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ブックマーク / le-matin.hatenadiary.org (11)

  • 犯罪被害者への帰責と社会学的進歩のなさ - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    ネット言論の一番奥深いところにある幻想は、「我々は独立した感覚と意見を持った存在であり、その表明が集合的になにかを形作る」というものだと思っているのだけど、どうなんだろうか。 もちろん、それは幻想だ。メディアでつながる人々の出現というのは、100年も前にタルドが新聞読者について言っていたことでなんら目新しいものではないという意味でそうだし、「その公衆たちは独自の意見を持っているように見えて、実は新聞を模倣しているにすぎない」と彼が断言した、という意味でもそうだ*1。 ある種の犯罪について、加害者(正確には単に容疑者なのだが、それはともかく)の断罪よりも被害者の落ち度を非難するようなことを言うひとたちがいて、その主張の論理的な誤りを批判するひとたちがいる。 どちらの人たちも、「自分たちがやっているのは論理的な意見の表明である」と言っているように僕にはみえて、その誠実さを疑うわけではないが、自

    犯罪被害者への帰責と社会学的進歩のなさ - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • パレスチナとイスラエル - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    近所の公立図書館を荒らしてきた。その成果の一冊。 「パレスチナとイスラエル」、ダヴィッド マクドワル、奥田 暁子訳、三一書房 これはすごい。原著が出たのが1989年なので、オスロ合意とパレスチナ自治政府成立以降の重要な部分がフォローされていないのだが、パレスチナ問題についての基的な文献のひとつに位置付けされうるのではないかと思う。 少くとも、僕がこれまで読んだなかでこれほど明確に問題の経緯が説明されているものはなかった。まあ、単純に僕が無知なだけだと思うのだけど、説明が素晴しく上手いのも事実だ。には詳しい説明がないのでさっぱりわからないのだが、こちらのサイトによれば著者のマクドワルは「オックスフォード大学で地域研究を専攻した中東問題研究家」だということだ。 全体として言えば、インティファーダ(第一次インティファーダ)を中心に、19世紀末から原著が出た時点での近未来である21世紀初頭まで

    パレスチナとイスラエル - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 日本は普通じゃない方がいいのじゃないか - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    まえおき たとえば「在日コリアンが持っている『特別永住者』という在留資格はおかしい。日国籍を取得させるべきだ」という考えがある。また「日国は様々な民族からなる国家になるべきだ。日の丸はその国家の象徴になるべきだ」という考えもあるように思う。 僕は、ザイトク会的なものの次に、こういう考えを心配している。もしザイトク問題が解決しても、この問題は残ってしまうのではないか、そういう不安がある。なので、この記事を書いた。不安に根拠があるのか、と言われれば「印象程度です」と答えるほかない。杞憂に終わればよいと思う。 文 日の丸を国民の統合の象徴とする、というアイデアには反対だ。多様なエスニシティの人々を日国民として統合するという話にも賛成できない。日国は様々な国籍をもつ人々が共存する場所であるべきだと思う。なぜなら、それが日のナショナリズムの唯一のありかただと信じるからだ。 ナショナリズム

    日本は普通じゃない方がいいのじゃないか - どんな懐かしさをおぼえるとしても
    lotus3000
    lotus3000 2015/05/20
    結局この欺瞞性に耐えられなくなったことが遠因か。
  • 戦死者の慰霊について考えたこと - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    ツイッターに書いたことに少し加筆してまとめ。フェイスブックとは重複御免。 僕は、この件に関して、塚学さんという歴史研究者が「「戦没者追悼平和祈念館」と地方史」という論文(エッセイ)http://ci.nii.ac.jp/naid/40002374704 …にまとめられた見解に多くを教えられた。ただ、ウェブでは公開されていないので、一部引用を交えて紹介する。 ここでは戦没者の慰霊をどう考えるべきか、という問題が提起されている。塚はまず、幕末・戊辰の内戦に思いをはせる。靖国神社にはもちろん「皇軍」の側の人だけが祀られている。つまり、幕府側について闘った人は入っていない。その結果、ややこしいことに禁門の変で戦士した会津藩士は祭神になっているが、戊辰戦争で戦死した会津藩士は祀られていない、というようなことになっている。しかし、実際に闘いが起こった場所では幕府側、朝廷(新政府)側の死者がともに慰

    戦死者の慰霊について考えたこと - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 維新は大阪をよくしなかった - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    5月17日の朝、「今アピールしなくていつするんだ」と思って書いた、維新市政批判の連続ツイート、こっちにもまとめときます。 ====== ====== 「このままの大阪市でいいんですか?」という言い方を、維新・都構想支持の人から良く聞く。では、橋下氏が市長になってからの4年間で大阪の行政はどれくらい良くなったのか。市役所の対応、行政と市民との連携が良くなったとはいえない。橋下氏は改革に熱心ではないか、または無能なのだ。僕は、若い改革派の市長がいる都市に住んだこともある。そういう市長は、まず市役所の雰囲気を変えるし、市民への対応も変える。行政と市民のインターフェイスがまず改善され、市民が市役所を利用しやすくなる。維新市政・府政はそういうことを何かやっただろうか?僕は、むしろ後退していると思う。 それまでの大阪市政は、不十分であり、遅すぎたとはいえ、市民の行政参画を試み、特に都心部では壊滅状態に

    維新は大阪をよくしなかった - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 日本と韓国のナショナリティ(とローカリティ) - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    金明美『サッカーからみる日韓のナショナリティとローカリティ』読了。清水市と西帰浦市(済州)で、(少年)サッカーをめぐる様々な実践をフィールドワークしたもの。日韓国のナショナリズムの成立ちの違いについての結論が興味深い。 大胆かつ大幅に要約すると、日のナショナリズムは「地域での活動が自然にナショナルなものにつがなる」ような形になっているという話である。金は、少年団でのサッカーが地域選抜から日本代表につながっていくというような図式に重ねて*1読み解く。 ここで、末端ではナショナリズムが持ち出されないことが特徴的だと指摘されるのが興味深い。日の、地域での少年サッカーはコミュニティに組み込まれた形で実施され、そこからだんだんナショナルなものに繋がっていく。また、活動のなかで自然に「日的」な価値観が教えられる。ローカルなものとナショナルなものの区別は日では曖昧になっているという。 一方、

    日本と韓国のナショナリティ(とローカリティ) - どんな懐かしさをおぼえるとしても
    lotus3000
    lotus3000 2015/05/20
    うーむ、これは面白い。韓国のほうがよりナショナリズムに自覚的なのか。
  • 日本のナショナリズムとか将来とか - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    偉そうなことを言うのは好きではないし、伝統だの社会のあり方だのを訳知り顔で語るのも嫌いだ。そこまでの実力も地位もない。けれど、一方で「日の伝統」とか「日人の感覚」とかをしたり顔で持ち出し、差別や排除を正当化しようとする人たちもいる。そういう人たちの言うことを黙って聞いているよりは、自分なりに言えることを言ってみようかと思ってこの記事を書いた。素人のやることだから間違いやツッコミどころは沢山あると思う。これをきっかけに、いろいろ考えて、発言していく人が増えてくれると嬉しい。 ベネディクト=アンダーソンは好きだしロマンだけど、やっぱり日にそのまま適用するのは無理があるよな、と思う。まあ、アンダーソン自身も「ナショナリズムをすべて説明できる」と言っているわけではないけど、日のナショナリズムを近代国家体制(=近代の国際関係)だけで理解するのは多分難しい。 明治維新はあきらかに世界的な国民国

    日本のナショナリズムとか将来とか - どんな懐かしさをおぼえるとしても
    lotus3000
    lotus3000 2015/05/20
    ”日本の近代国家は歴史に散りばめられた要素を再編して組み上げられた。ならば、それをもう一度やるほかない。”
  • 『秀吉の対外戦争』 - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    井上泰至、金時徳『秀吉の対外戦争:変容する語りとイメージ: 前近代日朝の言説空間』の感想。このは江戸時代初期からの「朝鮮出兵」を扱った日の書籍についての論文集だ。 まず、上記のようなものがかなりたくさん出版されていたという事実に驚く。もうはっきり対外戦争として意識されていて、「明治以前は国家意識がない」なんて俗説は吹っ飛ぶ。また、非常にしばしば日書紀にある「三韓征伐」の話が引用されていて、どうも朝鮮半島を属国視するのは江戸時代よりさらに前からのことではないか、という印象を抱かされた。以下(以上もだが)論とはちょっと違ってしまうことを覚悟で僕の感想を少し。 金によれば、朝鮮出兵は大きく二種類の論理によって正当化される。一つは征伐の論理。朝鮮側に「非礼」「虐政」「淫楽」「奸臣」「忘戦」などの落ち度があり、日が正義の軍としてそれを正すというもの。もう一つは防御の論理。元寇への報復、また

    『秀吉の対外戦争』 - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 左派ってこれからどうするのか - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    選挙の前後に「左派(左翼)のこれから」についていろいろツイートしていた。ちょっといじったら一つの文章になりそうだったので、まとめ。 8−90年代の個人主義(というか、反集団主義)的なムーブメントが共同体主義をへて排外的なナショナリズムにつながっていく流れっていうのは、00年代の前半には見えてきていたかな、と思う(このへんは、たとえば薬害エイズと拉致事件の言説分析などをやると面白い。同じフォーマットが左翼的な主張から右翼的な主張に転用される様子が実によくわかる)。 こういう思考の特徴というのは「自己への愛」がそのまま「国家(世界を包含する共同体)への愛」につながっていることで、その先駆的で極端な形のとしてのオウムから「量産型」としてのセカイ系、ややマイルドなあり方としてのJリーグまで、色々な形がある。そこで問題なのは、対話が存在しないことだ。「敵」と話し合わないのはもちろんだが、「仲間」だっ

    左派ってこれからどうするのか - どんな懐かしさをおぼえるとしても
    lotus3000
    lotus3000 2013/05/15
    食えるようにするのは重要。しかしかつての食えるようにした言説が過激化競争になったわけだしね。どのように食うかなんだろう。id:haruhiwai18:そこを詳しく。
  • スポーツって芸術の一種だと思う - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    スポーツは芸術の一種だと僕は思っている。絵をみて「すげなあ、上手いなあ」と思う。焼き物の歴史を知って「そうか、そういう風に技術が発展するんだ」と思う。小説を読んで「うわあ、どうやってそんな風に発想するんだ。俺には書けないわ」と思う。そういうのは全て、大きく言えば人類全体の、小さく言えば僕の認識の、可能性を拡大することだ。直接生産や生存に結びつかなくても、そこに価値がある。 スポーツもそうなのだと思う。選手たちは、自分の身体を使って、人類にやれることの可能性を拓いているのだ。そのとき、飛び抜けてすごい結果を出した人が、自分と文化や伝統を共有していたら嬉しい。それは、自分にも身近な条件のなかからどれだけのものを産み出せるか、ということの証明だからだ。でも、全然違う世界から来たひとがやっていてもやはり嬉しい。僕達の種族にどんな可能性があるのかを、その人は見せてくれているのだから。 「国を背負う」

    スポーツって芸術の一種だと思う - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 環境と分断 - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    環境問題と市民の連帯 ついこの間であり、無限に遠い過去でもある今年の3月上旬まで、僕にとって環境問題は人々を連帯させる魔法のキーワードだった。もちろん、現実世界では様々な利害関係とか成長によって解決される問題とかがあってそう簡単にはいかないわけだが、大雑把に四捨五入すれば「環境問題は誰にも共通のリスクであり、それへの対処は共通の利益になる」と考えることができる、と僕は思っていたのだ。 それは、言い換えると「個々人が利己性を最大限に発揮することが連帯に集束する」という世界だった。誰もが健康でありたく、有害なものにさらされたり摂取したりしたくない。その度合いを挙げて行けば行くほど、より強く連帯ができる。個人の利益を抑圧する必要は一切ない、理想的な連帯の形である。 もちろん、これは僕の妄想にすぎない。だから、間違っている可能性は多いにあるのだけど、市民運動というものも、部分的にはこういう考えに基

    環境と分断 - どんな懐かしさをおぼえるとしても
    lotus3000
    lotus3000 2011/06/14
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