タグ

ブックマーク / www.m-y-star.com (1)

  • 鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡

    軍は太宰府まで退却のほかなかった。敗因にあげられるのが、鉄砲であり、強弓から放たれる毒矢であり、長槍であった。 鎌倉末期から発達する日の槍は、元との戦闘から得た教訓のたまものだ。この戦闘に見られた元軍の集団戦法は、日の一騎討ち武士道をじゅうりんした。日側では、戦意を失って戦場から逃亡する武士が続出したのである。 その夕暮れ、高麗軍の将・金方慶は、敗走する日軍を太宰府に追って、一気に勝利をつかもうとした。元の総将・忻都(きんと)は軍兵を船に戻すことを主張して意見が割れた。しかし、元と高麗の軍は船にしりぞいていった。 これは元の軍船が南宋の海軍力に頼っていたため、上陸しての戦闘中に、南宋人が元車を置きざりにして船で逃げてしまうとを恐れたのである。 その夜、大風雨が越こった。元と高麗の軍船は難破して、連合軍3万3千人のうち1万3千5百人が失われた。これを神風と日では呼んだ。1

    mangakoji
    mangakoji 2011/12/13
  • 1