江戸時代当時、将軍家と徳川御三家では美濃で作られた紙、美濃判(縦九寸、横一尺三寸)を権力の象徴として使用していました。大名はそれよりも一回り小さいサイズの紙を使い、一般の者たちはそれよりもさらに小さいサイズを使っていたようです。 時代も明治に移り、士農工商という身分制度が廃止されると、多くの人たちが競ってこの大きなサイズの紙、美濃判を使うようになり、美濃判が和紙の標準サイズとして定着していきました。 またそのころ、イギリスから輸入されたクラウン判(787×1092mm)の変形が美濃判の八倍のサイズ(788×1091mm)であったことから、大八つ判という紙として販売されました。この大八つ判を三十二面に裁断すると四寸×六寸の大きさになるため、大八つ判という呼ばれ方よりも四六判という呼ばれかたが定着していきました。 ●菊判 明治の半ば、日本橋の川上商店という会社がアメリカの標準判を一回り(1イン