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2008年5月11日のブックマーク (12件)

  • 空手家一覧 - Wikipedia

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  • http://blog.livedoor.jp/samurai_mugen/archives/51041566.html

    maroon_lance
    maroon_lance 2008/05/11
    「喜んでサバキ合戦をしよう。確実に芦原英幸直伝の裏サバキで首の頸椎を破壊する。」
  • 2008-05-11 - ホドロフスキの記録帳 [歴史][田中正明]A級戦犯の呪い

    田中正明センセイの名著『 "南京虐殺"の虚構 』より、 身も凍るような話を引用。*1 ウォーカー中将頓死のこと その七戦犯の処刑執行責任者はヘンリー・ウォーカー中将である。彼が刑の執行を命令し、処刑した七人の遺体を深夜トラック二台に積んで、護衛をつけ、久保山火葬場まで運搬し、厳重に憲兵を配置して、火葬に付した。そして、どこに捨てたか知らないが、太平洋にその骨を捨てて処理した−−宗教的儀礼もなく、馬の骨でも捨てるように−−、そのすべてをはたしたのがウォーカー中将であった。 昭和二十五年、朝鮮戦争がはじまり、ウォーカー中将も兵を率いて韓国におもむいた。戦場視察のため、断崖絶壁の雨にぬかるむ海岸道路を走っているとき、後から来た友軍の貨物自動車の追突をうけた。彼の自動車は、もんどり打って数十メートル下の渚に転落し、アッという間もあらばこそ、彼はあえない最期をとげた。なんとその日が祥月命日、十二月二

    2008-05-11 - ホドロフスキの記録帳 [歴史][田中正明]A級戦犯の呪い
    maroon_lance
    maroon_lance 2008/05/11
    逆に前任のアイケルバーガーは日本人間ですげー人気ある。それにしてもアイケルバーガー、ウォーカー、リッジウェイと猛将ぞろいの第8軍司令官。
  • 2008-05-11

    実況小笠原、解説は2と同じくTK&元気。まだ客席は埋まってない。 オープニング前のルール説明から。 トーナメント特別ルールは相変わらず「勝った選手がケガで準決勝に出られない場合は負けた選手が準決勝に進む」と紹介されている。 島田の紹介時にいつものブーイングがあるが、カメラが島田を追い切れず。別にいいが。 オープニングVから全選手入場。 チョン・ブギョンのニックネームが「地獄腕十字」・・・。 3日前に参戦が決まった昇侍だがが、煽りもちゃんとある。昇侍はフジのPRIDE中継テーマで入場セコンドは所。山崎もう30歳か。セコンドには菊田、三崎ら。 いきなり膝を入れる昇侍。さらにカウンターの飛び膝を打つが、飛び越えてしまう。組み付いた山崎。昇侍は片足を取られたまま顔面にパンチを入れるが、胴に組み付いた山崎がサバ折りテイクダウン。ハーフ。マウント。腕を狙う山崎。パンチを落としながら伺う。昇侍はハーフか

    2008-05-11
    maroon_lance
    maroon_lance 2008/05/11
    「宇野vs川尻、青木vsアルバレス」青木は試練だなあ
  • エーリッヒ・フェルギーベル - Wikipedia

    エーリッヒ・フェルギーベル エーリッヒ・フェルギーベル(Erich Fellgiebel, 1886年10月4日 - 1944年9月4日)は、第二次大戦中のドイツ陸軍の通信兵大将。ヒトラー抵抗運動の一員。マンシュタイン元帥とは親友の間柄だった。 ドイツ帝国・ブレスラウ近郊のペーペルヴィッツ(現在のポーランド・ドルヌィ・シロンスク県ポポヴィツェ(英語版))出身。 1905年9月に士官候補生としてプロイセン陸軍の電信大隊に入営。第一次世界大戦中は陸軍参謀部に勤務。第一次世界大戦後も参謀将校としてベルリンに勤務。高級将校教育課程を修了し1928年に少佐、1933年に中佐、1934年に大佐に昇任。1938年には少将に昇進し、陸軍通信部隊(de) (英:Chief of the Army' Signals Establishment) のトップならびに国防軍最高司令部の通信部門の責任者。1940年

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  • マクシミリアン・フォン・ヴァイクス - Wikipedia

    ウッチに入城する部隊を閲兵するヴァイクス(右端)(1939年9月9日) マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs, 1881年11月12日 - 1954年6月27日[1][2])は、ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦で軍司令官、軍集団司令官などを務めた。最終階級は元帥。 ヴァイクスはバイエルン王国の由緒ある貴族の家系の出身であり、フルネームはマクシミリアン・マリア・ヨーゼフ・カール・ガブリエル・ラモラル・ライヒスフライヘア[3]・フォン・ウント・ツー・ヴァイクス・アン・デア・グローン(Maximilian Maria Joseph Karl Gabriel Lamoral Reichsfreiherr von und zu Weichs an der Glon)である。 デッサウに生まれる。19歳のときランツフートにある重騎兵第2連隊に入営し、そこで中尉

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  • ハッソ・フォン・マントイフェル - Wikipedia

    ハッソ・エッカート・フォン・マントイフェル(Hasso Eccard von Manteuffel, 1897年1月14日 - 1978年9月24日)は、ドイツの軍人、政治家。第二次世界大戦では装甲部隊を率い、1944年9月1日に47歳にして装甲兵大将に昇進、アルデンヌ攻勢において7個師団を擁する第5装甲軍を指揮した。戦後の「ドイツ連邦軍(ブンデスヴェーア)」の命名者。 ポツダムに生まれる。1908年、陸軍士官学校に入学、士官候補生となり第一次世界大戦にユサールとして参加、第3ユサール連隊に配属される。1916年に少尉に任官、鉄十字章を受章。終戦後の1919年に義勇軍(フライコール)「フォン・オーフェン」で副官を務めるが、その年5月に新設の国防軍に採用され、ラーテナウの第25ユサール連隊に配属される。1921年、エヴァルト・フォン・クライストの姪と結婚し、二児をもうける。1920年代前半に

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  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    顔に見える?最近「送水口」が気になるという話 「送水口」が気になる今日この頃 最近街中で気になる存在、それがこの「送水口」です。地上のフロアが7階以上あるビルなど、一定の条件を満たした建築物には設置が義務付けられているもので、火事が発生したフロアにただちに水を送るために使われるものです。ポンプ車…

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  • エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン - Wikipedia

    ヨープ=ヴィルヘルム・ゲオルク・エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン(Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben, 1881年12月4日 - 1944年8月8日)は、ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦中のドイツ国防軍陸軍元帥。ヒトラー暗殺計画に加担して処刑された。 ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(左)の軍歴40年を祝福するヴィッツレーベン(1941年3月) ヴィッツレーベン家はテューリンゲンに起源を持つ由緒ある貴族の家系で、代々軍人を輩出してきた。ヴィッツレーベンはそのプロイセン王国の分家にブレスラウで生まれた。プロイセン陸軍士官学校を卒業後、1901年に少尉として「ヴィルヘルム王」擲弾兵連隊に配属される。1910年、中尉に昇進。 1914年に第一次世界大戦が始まると第19後備歩兵旅団長副官を務め、10月に大尉に昇進し後備第6歩兵連隊で中隊長となった。の

    エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン - Wikipedia
  • ヴァルター・モーデル - Wikipedia

    ゲンティーン(現ザクセン=アンハルト州)生まれ。音楽監督オットー・モーデル(ドイツ語版)とマリア(旧姓デンメア)の長男[1]。ゲンティン、エアフルトおよびナウムブルクの学校に通った。アビトゥーアに合格する[2]も軍人への道を志し、1909年に士官候補生として第52ブランデンブルク歩兵連隊「フォン・アルフェンスレーベン」に入営[3]。ニサの士官学校(ドイツ語版)で学ぶ。翌年少尉任官し、クロッセン・アン・デア・オーデル(英語版)の第1大隊に配属。第一次世界大戦勃発当初、第52連隊は第1軍傘下の第5師団(英語版)第10歩兵旅団に編入され大隊副官、連隊副官として西部戦線に従軍。1915年に速成の参謀教育を受け、中隊長として前線で重傷を負った後、陸軍最高司令部に転属となり、作戦課に配属される。1917年に大尉に昇進。翌年後備第36師団(ドイツ語版)の次席参謀に転属となる。 1918年11月11日の停

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  • エヴァルト・フォン・クライスト (軍人) - Wikipedia

    パウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald von Kleist, 1881年8月8日‐1954年11月13日あるいは16日)は、ドイツの陸軍軍人。最終階級は元帥。第二次世界大戦で電撃戦の中核となる装甲集団の司令官などを務めた。 教育者の息子としてプロイセン王国ヘッセン=ナッサウ州(ドイツ語版)ブラウンフェルスに生まれる。1900年、士官候補生として第3野砲連隊に配属される。翌年少尉に任官。1907年ハノーファー陸軍乗馬学校入校。1910年中尉に昇進。1914年3月、騎兵大尉に昇進し第1ユサール連隊に転属。第一次世界大戦の勃発後、タンネンベルクの戦いに従軍。騎兵大隊長として前線で戦い、1917年から終戦までは西部戦線で参謀をしていた[1]。マクデブルク駐屯時には後に大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルクと「ちょっとした知り合い」になり、戦後

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  • 2008-05-11

    PPV放送から ずーと仕事が忙しかったこともあり(近日のエントリは、その合間に書いたところが我ながらなんとも早) 風邪でダウン…の一歩か二歩手前。 だので夕方からの大会に備え、外出も控えおとなしくしてます。 その分ブログは、たまっているものを少しずつ書いていく拡大版で。 それとも午前中は、「信長の野望」とかやってみようかな。2年ぶりか3年ぶりだ ニック・ディアスvs井上克也の体重問題。世の中、開き直れば何でもできる http://www.angle-j.com/archives/2008/05/10_1824.php ササヤンの肉声が伝わる、大変いい記事だ(笑) 井上は「納得できないところもある」とか言っているそうだが、言いたいことは原稿用紙に書いてくれ(10枚以内)。 まあ慧舟會には、体重オーバーで不戦敗になった飯田崇人とかもいるので、厳しい処分を求める理屈も分かるが。 かつてPRIDE

    2008-05-11