だが、こうしてみても、観察者の感情が受難者の感じている暴力にまでおよばないことも多いだろう。人間とは、生まれつき同情的ではある。でも、ほかの人の身になにかがふりかかるとき、その出来事に主としてかかわる当事者の心を自然にうごかしていく情熱と同じものを、心にいだくことは決してない。立場を想像して交換してみることで、共感がうまれる状況に身をおいてみても、それは一時的なものにすぎない。観察者におしつけられるのは、自分は安全なところにいるという考えであり、実は自分は受難者ではないという考えである。似たような感情をいだくことはできなる。でも、暴力に対処している受難者と、同程度の感情をいだくことはできなくなる。そのことに気がついた当事者は、さらに完璧な共感をつよく望んでくる。そうした安心感にあこがれはしても、観察者の感情と一致しなければ、安心感をあたえることはできない。乱暴な感情だろうと、不快な感情だろ