小野善康さん、それってちょっと…… 山形浩生 はーい。ようこそ。この文章は、山形の小野善康への批判に対して、小野善康が自ら稲葉掲示板に書き込んだ内容に対する、再反論、というわけではないな。論点の再整理みたいなものをやっているところでーす。小野さんはその中で、『景気と経済政策』を読み直せ、と言ったので、まああの本が見つからずに「経済政策の正しい考え方」のほうをざっと読んでみたんだけれど、やはり持っていた疑問はまったく消えなかったし、どうも小野善康の議論はずるいんじゃないか、という気さえしてきたので、それをまとめてみた。だから内容的にはほとんど変わっていないので、アレだけれど。これまで何度も、ご多忙のところわざわざ返事をくれた小野善康教授には感謝します。 なおこれまでの経緯がわからない人のために、これがここまでの経緯なのである。 1. 小野善康の論理構造 というわけでまず、小野善康の景気回復論
研修資料の余白に:『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である (2008/06/16, 17 日に 注 等細かい加筆, 22日にコメントなど加筆。) 山形浩生 要約:松尾『はだかの王様の経済学』は、解説されている疎外論がひがみ屋の責任転嫁論でしかないうえ、それを根拠づける「本来の姿」だの「実感」だのがあまりに恣意的で確認しようがなく、まったく使えない。そして「みんなで決め」ればすべてうまく行くというお花畑な発想は悪質なニュースピークによる詐欺であるばかりか、最後にはポル・ポトまがいの抑圧思想に直結していて戦慄させられる。 目次 序 「設備投資」は「コントロールできない」か? 疎外とはひがみ屋の天国である。 「本来の姿」ってだれが決めるの? 市場を超える「話し合い」って? 「みんな」で決めればだれも不満はない? おわりに 本稿への反応など 蛇足コメント 1. 序 松尾筺『はだかの王様の経済
要約: クルーグマン論文を紹介してからはや10年以上。やっと主流マスコミにデフレの批判が乗り、有力な政治家が日銀批判を開始してくれた。このままこれが、デフレ脱出とインフレ期待につながれば…… 日本は過去十年近く、デフレとそれに伴う不景気に悩まされてきた。でも、真面目な対策はほとんど見られなかったし、また各種メディアも、デフレの害をまともに報道も解説もせず、逆にデフレがよいものだなどと大まじめに述べて、一部の心ある人々(不肖このぼくも含む)は深い絶望に捕らわれていた。だが、それがこの十一月頃から、はっきりと風向きが変わり始めているようだ。 それを感じたのは、中央線の中で流れていた日経の経済用語解説でデフレの意味とそのマイナス面が説明されていたことだ。その後間もなく、今をときめく勝間和代が菅直人にデフレの害を直々にご注進。その数日後には、政府の月例経済報告の中で公式にデフレ宣言。そしてその前後
松原隆一郎へのお返事:ケインズが本当に言ったこと 2004/7/17-8, 7/21, 11/30 加筆 山形浩生 松原隆一郎が、またリフレ政策についてあれこれ書いている。最近の景気回復チックな動きが、自説(というのが何なのかぼくは未だによくわからない. その後ちょっとわかったような気はする)と整合的だ、と言って。だからそれはリフレ派の主張に反する、ということらしい。本当にそうなのかについては、専門家が十分に議論してくれるだろう。ただ、景気回復の原因の一つをかれは、政府の円高阻止のための介入だとしている。これはまさにリフレ派の提案している政策の一つだったし(大野他やスヴェンソンの議論を参照)、それで景気が回復してるんなら、リフレ派の処方箋通りだと思うし、それを否定する理由にはまったくならないとは思う。 さらにかれはスティグリッツ/グリーンワルド『新しい金融論』(東京大学出版会, 2003)
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日本がはまった罠 (Japan's Trap: クルーグマンのホームページで 1998.05 初公開) ポール・クルーグマン 山形浩生訳 日本の経済的な重病は、だれよりもなによりも日本自身にとっての大問題だ。でも、ほかの人たちにも、これは問題となる。機関車役を死ぬほど求めてる苦境のアジア経済にとっても、日本の貿易黒字のおかげで仕事がやりにくくなってる西側の自由貿易支持者にとっても。そして最後に(いちばんどうでもいいけど、でも無視できる存在じゃあない)経済学者たちにとっても、日本は問題なんだ。なぜなら、こんなことは起きないはずなんだもの。 ときどき象牙の塔から出てくるマクロ経済学者の多くと同じく、ぼくも実際のビジネスサイクルはリアル・ビジネスサイクルじゃないと思ってるし、一部の(いやほとんどの)不況は、全体としての総需要が落ち込むせいで起こるんだと思ってる。ぼくをふくめほとんどの学者は、こう
ぼくの研究作法 How I work (The American Economist, 1993) Paul Krugman Liddy 訳 + 山形浩生チェック このエッセイでぼくが公式に依頼されているのは、自分の“人生哲学”について語ることだ。はじめにはっきりさせておきたいんだけど、ぼくはこの指示に従うつもりはない。だってぼくは人生一般について何か特別なことを知っているわけではないもの。確かシュムペーターだったと思うけれど、彼は自分が故郷のオーストリアで最高の経済学者であるのみならず、当代きっての乗馬の名手で、あっちのほうも精力絶倫だぜとのたまったとか。ぼくは馬には乗らないし、それ以外の方面についても自分に幻想は持ってない(でも、料理はかなり得意だよ)。 このエッセイでぼくが伝えたいのはもっと限定されたことだ。つまり、ものを考えること、特におもしろい経済学をやるにはどうすればいいか、と
「ありえたかもしれない世界」にぼくは存在するか? 確率的世界観をめぐるあれこれ。 (『CUT』2004 年 5 月) 山形浩生 未来のことはわからない。でも、未来に何かをするためには、往々にして今の時点で何かをしとかなきゃいけない。高い買い物をしたければ、いまから貯金が必要だ。雨に濡れないためには、家を出るときに傘を持って出るほうがいい。不動産開発でもうけるなら、数年後の竣工時の市場を考えて動くしかない。だからぼくたちはあれこれと、可能性や見通しについて予想と見当をつけつつ、ローンを組んだり投資をしたり、買い物をしたり仕事をしたりする。その過程で何らかの形で、ぼくたちはいろんな選択肢の起こる確率について評価しているはずだ(そうでないと身動きとれないもの)。そして実際問題として、ある選択(つまりは評価)は他の選択よりも優れているはずだ。すると、ここで考えるべきことは二つ。ぼくたちのやっている
小野善康さん、それってちょっと…… 山形浩生 はーい。ようこそ。この文章は、山形の小野善康への批判に対して、小野善康が自ら稲葉掲示板に書き込んだ内容に対する、再反論、というわけではないな。論点の再整理みたいなものをやっているところでーす。小野さんはその中で、『景気と経済政策』を読み直せ、と言ったので、まああの本が見つからずに「経済政策の正しい考え方」のほうをざっと読んでみたんだけれど、やはり持っていた疑問はまったく消えなかったし、どうも小野善康の議論はずるいんじゃないか、という気さえしてきたので、それをまとめてみた。だから内容的にはほとんど変わっていないので、アレだけれど。これまで何度も、ご多忙のところわざわざ返事をくれた小野善康教授には感謝します。 なおこれまでの経緯がわからない人のために、これがここまでの経緯なのである。 1. 小野善康の論理構造 というわけでまず、小野善康の景気回復論
要約: 近年、いじめ談義が盛んだが、言われるのは「いじめられる側の気持ちを考えよう」というのばかり。でも自分の経験からいっても、その気持ちを知っていればこそ、二度といじめられないための安全策としていじめにはしるしかない子も多い。そういう社会力学を考えずに同情するだけじゃ何もならない。 これが掲載される頃にはすでに下火になっているかもしれないけれど、いま世間ではいじめ談義がさかんだ。いろんな人が、各種メディアで似たりよったりのことを言っている。学校が悪い、親が悪い、いじめるやつが悪い、いじめられる人の気持ちを考えよう、いやいじめられる側が反撃しなきゃダメだ、等々。でもその発言している連中の顔ぶれや口ぶりを見て、まるっきり話にならないと思う。みんな、自分はいじめとは一切関係がなかったような健康優良児と優等生どもが、第三者的なきれいごとを言うばかり。何が反撃しろだ。いじめって、殴ったりこづいたり
要約: 相変わらず官僚バッシングは盛んで、天下りをやめさせろという議論が華々しい。でもそれなら一方で、天下りがなくても官僚が定着し、よい仕事をしてくれるような仕組みを作ることが必要だ。一方で各種規制面で、官僚にもっと仕事をしろという要求だって強いんだし。かれらを締め付けてやる気をなくさせたら、困るのは我々国民だ。 ぼくは本業がサラリーマンで、各種官庁やお役所から仕事をもらうことも多い。また卒業した学校の都合で、同級生や知り合いにはあちこちの省庁の官僚がたくさんいる。このため、これからぼくの書くことをゴマスリと思う人もいるだろう。それによって最終的には自分の利益を確保したいだけだろう、と。 そしてそれは必ずしもまちがってはいない。ぼくは常に自己利益を追求する議論をしている。それはぼくに限らない。あらゆる人のあらゆる議論はそうだ。年金制度をどうすべきだとか、日銀の金融政策が云々、グローバリズム
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ねえ T.N. 君。今の民主主義なんて、くだらないと思いませんか。だれもちゃんと、民主主義のあるべき姿なんか考えてないと思う。カンボジアくんだりにでかけてって、原住民に形式的に選挙させて喜んでる連中なんて脳が腐ってると思う。小学校の学級会の水準から一歩も進んでないと思う。だって一人一票とかいうけれど、あのバカの一票と、このおれの一票が同じ価値なわきゃないんだから。そう思ったことのない人間は、そもそも物を考えたことのないバカか、でなきゃよほどの聖人だ。選挙をタレント人気投票と勘違いして、今の某知事みたいな連中を選んじゃうやつらに選挙権をくれてやっていいの? 普通選挙制はまちがってると思う。安易すぎると思う。車の運転にすら、資格試験があるんだよ。なんで二十歳になったくらいで、ホイホイ気軽に選挙権をやっちゃうわけ? ねえ T.N. 君。そう思いませんか。きみの願った普通選挙制のなれの涯てを見て、
要約: 日本人の寄付額はやたらに少ない。これは税制なんか関係なく、日本人がケチで、お上頼みだからだ。政府が財政危機だというと、なんとみんな増税賛成だって。そんなにお金をむしりとってほしければ、自主的に政府に寄付すればいいじゃないか。ぼくは、お金の流れを是正すべきだと思ったところには微力ながら自主的に寄付をするぞ。 日本人はアメリカ人に比べて全然寄付をしない、というニュースがしばらく前に流れていた。特に個人。内閣府経済社会総合研究所のレポートによれば、個人の寄付総額は、日本はアメリカの百分の一。2005年のスマトラ沖地震でも、アメリカの民間寄付は6億ドル弱なのに、日本からの民間寄付は五千万ドル。それも日本は七割が法人寄付だとみていい。 さてこれについて巨大ネット掲示板2ちゃんねるでは、日本はいま不況だから払う余裕がないとか、文化・宗教的なちがいだとか、実は寄付するアメリカ人は腹黒くて云々とか
20年前に、ぼくはあるお話を読んで人生が一変した。いまもよくこのお話を思い出す。危機に直面しても、このお話のおかげで落ち着いていられるし、陰気な停滞期にも希望を失わずにいられるし、そしてすべては運命だとあきらめたり、悲観的になったりする誘惑にもうち勝てる。アジアの悲惨な状況が世界経済全体を脅かそうとしているこの陰気な時代に、この霊感的なお話の教訓の重要性は、これまでになく高まっている。 このお話は、「金融理論とキャピトルヒル子守協同組合の大危機」という論文に述べられている。これは 1978年に、Joan & Richard Sweeneyが Journal of Money, Credit, and Banking に発表した論文だ。このお話については、すでに拙著二冊、Peddling Prosperity (邦訳「経済政策を売り歩く人々」日本経済新聞社)と The Accidental
面子がどうのとか、浮わっついた話をしてる場合かね。 DELUSIONS OF RESPECTABILITY Paul Krugman 山形浩生 訳 とりあえず、いまならほとんどだれでも認めることから始めてみよう。日本は明らかに経済が停滞していて、潜在的な生産能力よりはるかに低いところでしか動いていない。実際問題として、もしあの楽観的な日本のお役人たちが正しくて、1999 年に日本経済がちょびっとばかり成長したとしても、生産能力と実際の生産量とのギャップは拡大する一方だ。通常の金融政策はほとんど限界までやっていて、それでもまだダメ。財政政策もとことんまでやりつくしてるのは、国債の利回りがあがっていたり、格付け機関からの格下げの脅しをみる限りでは明らかだし、それでも効果なし。銀行は、むりやり追加の資本注入を受け入れさせられているけれど、でもこれで消費が増えるとは思えない。そして、政府の政策道具
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