ブックマーク / kangaeruhito.jp (4)

  • お客さん物語 | 稲田俊輔 | 連載一覧 | 考える人| シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。知の楽しみにあふれたWebマガジン。 | 新潮社

    はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。 どうして自分が「考える人」なんだろう――。 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな

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    mazmot
    mazmot 2023/05/03
    最初のネタが「興味がない」なのに、そっちの話にはならないんやな。たぶん、そこに興味がないんやろな
  • ご飯が大事 | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    在沖米軍と一口に言っても、部隊によって街の雰囲気は違い、べる量も違うそうだ。コザは嘉手納基地の門前町だから空軍(エアフォース)が多く、家族で住んでいる地上勤務の人も多い。それに対して、金武のキャンプ・ハンセンは海兵隊(マリーン)の基地で、若者の街だ。 エアフォースはビールを飲みますけど、マリーンはぜんぜんビールを飲まないです。戦争する一線部隊の軍人だから、ビールを飲んだらいかん、太ったらいかんと言うんです。エアフォースの場合は、太った人や、年配も多いんですよね。だから、エアフォースは、ビール飲むけど、あまりべない。 確かにタコスはビールによく合う。勝田さんの「チャーリー多幸寿」をはじめコザ一帯にタコス店が多いのは、エアフォースの街のせいかもしれない。一方、タコライスという料理が金武の街で生まれて一気に広まったのは、若い兵士が多い「飲まない街」ならではのことだったのかと得心がいった。 金

    ご飯が大事 | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子 | 連載 | 考える人 | 新潮社
    mazmot
    mazmot 2017/12/20
    この連載、ずっと開いたタブを残しっぱなしで読み続けてきた。ようやくタブを閉じれる。おもしろかった。ありがとう。
  • 変わりゆく街、変わらないもの | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    (前回まで)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1956年からずっとコザでレストランを営んできた。 1976年頃、BC通り(別名・センター通り、現・中央パークアベニュー)に移転して間もない頃。勝田家より提供 出来ることならセンター通りの慰霊の塔をつくりたいね。戦後、ここで頑張って損して死んだ人たちの。沖縄戦で死んだ人達じゃなくてよ。 何かいい画像がないかとめくっていた写真集『コザ残像:フォート・コレクション』(宮城秀一編著、復刻拡大版:2007)の小さなコラムに胸を衝かれた。1952年にコザで生まれてセンター地区の自治会長を務めたこともある富実さんという人が、父の友人がしみじみ呟いたと記憶する言葉だ。 BC通りの短期間での盛衰は、おそらく後の世代のよそ者には分からないのだろう。占領、朝鮮戦争と基地整備、冷戦、ベトナム戦争土復帰

    変わりゆく街、変わらないもの | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子 | 連載 | 考える人 | 新潮社
    mazmot
    mazmot 2017/11/11
    "偉い人の子だって、やっぱり悲しいんですよ。親がどんなことしていたか子供は分かんないですけど。家族を亡くしたら変わらない、みんな悲しいんです。"
  • アメリカの豊かさ、そして帰郷 | チャーリーさんのタコスの味――ある沖縄史 | 宮武実知子 | 連載 | 考える人 | 新潮社

    (前回までのあらすじ)「チャーリー」こと勝田直志さんは、コザの有名なタコス専門店の創業者。沖縄戦の生き残りでもある。1945年9月、ようやく終戦を悟って投降し、屋嘉(やか)の捕虜収容所へ送られた。 その後、勝田さんは屋嘉から牧港(まきみなと)へ移送された。当時、楚辺(そべ)、嘉手納、那覇など5カ所に収容所があった。中でも牧港は大規模で、20数名が一つのテントに住まわされ、全部で1000名以上もいたそうだ。 収容所では簡単な作業をさせられた。だいたい朝10時頃から4時か5時頃まで。朝、5列縦隊に並ばされ、「5,10,15,20」と数えられて作業へ向かう。大した仕事ではなかったので、何をしたのか特に思い出せない。日曜日は休みで、平日でも特段の作業がなければ休みだったと思うが、あまり詳しく覚えていない、と勝田さんは言った。 忘れがたい鮮明な記憶は、米兵がガソリンを掃除に使っていたことだという。「

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    mazmot
    mazmot 2017/01/03
    ガソリンで戦車の部品を洗浄する話は他の記録でも出てくるので、たぶんガソリンは本当。実際、溶剤として油汚れを落とすのに使うことは可能。
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