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ブックマーク / nagaichi.hatenablog.com (55)

  • 『山月記』の袁傪が将軍だった件 - 枕流亭ブログ

    中島敦の『山月記』については文学畑にさんざん研究されつくされているでしょうし、それに付け加えるべき知見も持ち合わせがないのですが、中国史屋として歴史面からアプローチしてみるのも面白かろうと書いてみました。以下は『山月記』の袁傪のモデルとなった実在の袁傪について述べており、『山月記』の袁傪の人格や毀誉褒貶に一切関わりがないことを特に申し添えておきます。 さてはじめに袁傪の出自や前半生を語りたいところですが、ほとんど何も分かりません。正史に袁傪の列伝がないので、まとまった伝記というものがないのです。まずは袁傪の出身地が不明です。『全唐文』巻396に見える「姚令公元崇書曹州布衣袁參頓首」の「袁參」が袁傪という説もありまして、これを採るなら曹州(済陰郡)の人になります。ちなみに袁傪の貫を陳郡(陳州)とするのは、李徴とからむ『宣室志』人虎伝系の説話が生まれて以降の設定のようで、まともな史書には見え

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  • 上官婉児墓誌 - 枕流亭ブログ

    昨年9月に出た唐の上官婉児の墓から出土した墓誌が『考古与文物』に公表されたらしいです。 http://sn.people.com.cn/n/2014/0108/c190230-20338075.html http://www.sxdaily.com.cn/n/2014/0108/c47-5325449-1.html 誌蓋は、「大唐故昭容上官氏銘」の9字です。 誌文は、32行982字だそうです。以下は例によってネットに落ちてたのを適当に加工したので、誤字ってたらゴメンナサイ。 大唐故婕妤上官氏墓誌銘并序 夫道之妙者乾坤得之而為形質氣之精者造化取之而為識用挻埴陶鑄合散信息 不可備之於人備之於人矣則光前絕后千載其一婕妤姓上官隴西上邽人也其先 高陽氏之后子為楚上官大夫因生得姓之相繼女為漢昭帝皇后富貴勲庸之不絕 曾祖弘隨籐王府記室參軍襄州總管府屬華州長史會稽郡贊持尚書比部郎中與 觳城公吐萬緒平江南授

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  • 隋煬帝墓認定 - 枕流亭ブログ

    揚州曹庄隋唐墓が煬帝と蕭皇后の合葬墓と認定されたというニュース。 http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013111601002158.html http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131117-OYT1T00307.htm http://news.xinhuanet.com/overseas/2013-11/17/c_118170614.htm http://culture.gmw.cn/2013-11/17/content_9509532.htm http://www.s1979.com/house/20131117/17106739817.shtml 煬帝墓については、以前もうちで記事を書きましたが、その続報ということになります。 http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20130416/p1

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  • 隋の煬帝の墓が出土 - 枕流亭ブログ

    ご無沙汰ぶりのブログで、わりとビッグニュースの紹介です。隋の煬帝の墓が江蘇省揚州市邗江区西湖鎮司徒村曹荘で出土したとのことです。 ↑今回発見の墓 揚州市は長江下流域の北岸に位置している古くからの都市ですが、隋のころには江都と呼ばれていました。南朝の文化を愛した煬帝は、たびたびこの江都に来ておりまして、最期を迎えたのもここでのことです。煬帝は江都に宮殿を建てて趣味全開の遊興三昧。晩年に華北の情勢が怪しくなると、江都から離れようとせず、そのために部下の宇文化及に殺害されております。 さてこのたびの出土品ですが、鎏金銅鋪首や金瓖玉腰帯といった文物が出ているようですが、やはり決定的だったのは、墓誌の発見ですね。 「隨故煬帝墓誌」(隨は隋と通字)というようです。墓誌中に「隨大業十四年」とか「帝崩于揚州」とかあって、決め手になってるようです。 ↑鎏金銅鋪首 ↑発見された墓誌 あと今回発見の墓の東側の墓

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  • 封国・諡号・官職・邑地から生まれた氏 - 枕流亭ブログ

    昨日の記事とは、また別視点ですが。 中国韓国はなぜ1文字? 世界の「名字の謎」(日経済新聞) http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46851290T01C12A0000000/ この日経記事も、やや古いながら『第三世界の姓名』(明石書店,1994)でも参照していれば、ああいう記事にはならなかったのではないかと。 第三世界の姓名 作者: 松脩作,大岩川嫩出版社/メーカー: 明石書店発売日: 1994/03/15メディア: 単行 クリック: 19回この商品を含むブログを見る 魯の荘公を「魯国の庄公」と書いてしまうようなチェックの甘いではありますが、少なくともこの日経記事よりは参考になることがたくさん書いてあります。

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  • 『世本』にみえる2字の氏 - 枕流亭ブログ

    日経のWEB記事で次のようなものが出ていました。 中国韓国はなぜ1文字? 世界の「名字の謎」(日経済新聞) http://www.nikkei.com/article/DGXBZO46851290T01C12A0000000/ 全体として1文字の名字が圧倒的に多い(司馬、欧陽など2文字の名字もまれには存在する)。森岡さんによると、中国人の名字は少数民族も含めて4000程度とされ、10万から30万はあるとされる日人の名字に比べるとかなり少ない。 「中国の漢民族は世界でも最も早く名字ができた民族といわれるが、伝統的に漢字1字の単姓を基としており、日のように自分で地名などから名字を名乗ったり、分家した際に名字を変えたりすることがなかった。だから、名字の種類も増えなかったのではないか」と推測する。 「伝統的に漢字1字の単姓を基として」いたのは確かなんですが、事情はもう少し複雑ではないか

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  • 「清明上河図」作者の生没年? - 枕流亭ブログ

    http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A0%E6%8B%A9%E7%AB%AF http://baike.baidu.com/view/28216.htm 「清明上河図」の作者とされる張擇端について、1085年生まれの1145年没とするテキストがネット上に氾濫しているが、根拠が分からない。張擇端の伝記については、「清明上河図」の張著の跋文以外に史料がないはずなのだが。 張著の跋文については以下のとおり。 翰林張擇端、字正道、東武人也、幼讀書、遊學於京師、後習繪事、工界畫、尤嗜於舟車、市橋郭徑、別成家數也、按向氏評論圖畫記云、西湖爭標圖、清明上河圖、選入神品、藏者宜寶之、大定丙午清明后一日、燕山張著跋。 これだけで生没年が分かるわけがない。そもそも張擇端が「清明上河図」を描いたのは、北宋のときなのか、南宋のときなのか、それとも金朝なのか。実際に開封を見て描

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  • 『草原の風』 - 枕流亭ブログ

    宮城谷昌光『草原の風』(中央公論新社) 昨年末に全3巻で出た小説を読了しました。ようやく光武帝のオーソドックスな長編が出たなあという感慨があります。光武帝劉秀を扱ったものとしては、先行に塚青史氏の長編があるのですが、こちらは光武帝の面白エピソードの多くが端折られた無念の怪異作でした。宮城谷光武帝は『後漢書』をベースにしながら、宮城谷得意の上古の教養をひけらかしつつ、先行のハードルを越えたものと思ってよいでしょう。司馬亜流の宮城谷文体も健在ですね。 さて、『草原の風』という題から光武帝を連想することは困難かと思いますが、おそらく『後漢書』王霸伝の「光武、霸に謂いて曰く、『潁川、我に従いし者皆逝く。而して子独り留まる。努力せよ。疾風は勁草を知る』と。」から引いているものと思われます。作中それと知れるシーンは2、3カ所しかありませんが、光武帝の爽快さと芯の強さを印象づける良題です。 作を挙兵

    『草原の風』 - 枕流亭ブログ
    mfluder
    mfluder 2012/01/28
    宮城谷昌光『草原の風』(中央公論新社)"ようやく光武帝のオーソドックスな長編が出たなあという感慨があります"
  • 突騎施王子墓誌の発見 - 枕流亭ブログ

    http://news.cnyes.com/Content/20111220/KE10FJUKR37XA.shtml http://www.chinanews.com/cul/2011/12-19/3543417.shtml 西安で唐代のトルギッシュ(突騎施)の王子の墓誌が見つかったというニュース。2011年10月、西安市文物保護考古処が西安の西郊で18基の隋唐の墓の緊急発掘をおこなっていたところ、その中の6号墓でくだんの王子の墓誌がみつかったそうな。誌蓋には「唐故突騎施王子誌銘」。王子の名は光緒。唐の交河公主の孫で、トルギッシュの奉徳可汗の子。トルギッシュは西突厥の別部で、唐の玄宗の開元年間に蘇禄が自立して西域で勢威を張った。唐はトルギッシュを籠絡するために、阿史那懐道の娘を交河公主に封じて、蘇禄にとつがせた。蘇禄の晩年にトルギッシュは黄姓と黒姓に分裂して抗争し、蘇禄は殺害されてしまうの

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  • おもしろ耶律楚材論文 - 枕流亭ブログ

    CiNiiで公開されている論文、原田弘道「耶律楚材と萬松行秀」が面白すぎてツボにはまったのでご紹介。 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007015003 まずは冒頭からかっとばしている。 父の予言通り金朝より元朝に仕え、世界に未だ曽て存在しなかった連邦共和国制による蒙古大帝国建設の礎を築くことになる。 耶律楚材(1244年死去)が生きていたころのモンゴル帝国を「元朝」(1271年〜)と呼ぶべきではないってのがまずあるが、そんなツッコミも些事に思えることがさらっと書いてある。モンゴル帝国が「連邦共和国制」ですと!連邦制というならまだしもだが、共和国がついているのがすごい。どこが共和国なのだろう?個人的にはモンゴル帝国の中小のウルスの群体構造は遊牧封建制と呼ぶべきではないかと考えているが、さておき論文というものは、術語の定義に厳密に気を遣うものではないのだろうか。 楚材

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    mfluder
    mfluder 2011/12/20
    わはは
  • 秦末の「楚人」意識 - 枕流亭ブログ

    『史記』項羽紀に范増の発言として見える「楚の南公曰く『楚は三戸といえども、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と」。予言だか後付けだか知れないが、はたしてこの謡言は実現した。 実際に秦を滅ぼしたのは、楚のノイエラントの連中だ。 陳勝は陽城(現・河南省登封市)の人。 呉広は陽夏(現・河南省太康県)の人。 項羽は下相(現・江蘇省宿遷市)の人。 劉邦は沛豊邑中陽里(現・江蘇省徐州市豊県)の人。 かれらは戦国も下った時期に楚領となった東方地域の出身者たちだ。楚の古くからの領土である湖北・湖南の出身者は秦末での活躍が見られない。 戦国の楚は西方の秦の圧迫を受けて紀元前278年に湖北荊州の郢を奪われ、河南淮陽の陳に遷都しており、さらには紀元前241年に安徽寿県の寿春に遷都している。代わりにというわけではないが、楚は紀元前286年に宋を滅ぼし、紀元前256年に魯を滅ぼして東方での領土は拡大している。むろん西方で

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  • 禰軍墓誌 - 枕流亭ブログ

    「日」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見(朝日) http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 西安で唐代の百済人の禰軍の墓誌が発見され、墓誌の文中に最古の「日」呼称が出ているということで、話題になっています。日の国号が記載されている墓誌というと、井真成墓誌(734年)の発見が記憶に新しいですが、それをさらにさかのぼる日号つき墓誌の発見になりますね。 墓誌の誌名は「大唐故右威衛将軍上柱国禰公墓誌銘并序」らしいですが、ネット上には全文が落ちてないので、情報求むです。 朝日で出てる陰影は墓誌文のごく一部だと思いますが、素人目で分かるとこだけ起こしておきます。 奠風影征雲外去顯慶五年 戎如金磾之入漢  聖 日餘噍據扶桑以逋誅 千艘横波援原虵而縦沵 西暦660年(顯慶五年)の唐による百済征服や、66

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    mfluder
    mfluder 2011/10/23
    「日本」
  • 「嫁」字について - 枕流亭ブログ

    ここらへんの話をふまえながら 「中国嫁日記」の差別性が自覚できない奴は差別主義者!…(゚Д゚)ハァ(Togetter) http://togetter.com/li/166146 「中国嫁の差別性」によせて(The cape of an island) http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome 『説文解字』が「女適人也。白虎通曰:嫁者,家也。婦人外成以出適人爲家。按自家而出謂之嫁。至夫之家曰歸。喪服經謂嫁於大夫曰嫁,適士庶人曰適。此析言之也。渾言之皆可曰適。皆可曰嫁」と言っているので、「嫁」字は「とつぐ」のほうが原義です。ただし「嫁」にヨメという意味があるのは日だけと言っている人がいるのですが、漢語の「嫁」にも派生義としてヨメの意味はあります。現代中国では「媳」のほうがもっぱら使われるため、勘違いしている人がいるのかもしれません。 語源的に

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  • 成都の天府広場から後漢碑が出た件 - 枕流亭ブログ

    http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-11/19/content_1594520.htm http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-11/20/content_1598889.htm http://sichuan.scol.com.cn/cddt/content/2010-12/27/content_1740527.htm 四川省成都市の天府広場の西側から2基の後漢碑が出たようです。「大碑」・「小碑」と呼ばれていますが、ふたつ合わせて10トンという巨大な石碑です。大碑には表裏両面で1400字あまり、小碑には表裏両面で800字あまりが刻まれているそうです。とにかく大きいということが分かります。 大碑のほうは「元嘉有二仲」とあって、これは元嘉二年で西暦152年のことです。小碑の両面にはふたつの年

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  • Wikipediaのみに依拠して歴史の「改竄」を叫ぶ人 - 枕流亭ブログ

    中国史がらみで変な記事を見つけたと思ったら、またJBpressか!と思わなくもありません。伊東乾という音楽家のかたが書いた記事です。 歴史を都合よく改竄した欧米、その巧妙な手口 「歯ブラシは豚の毛で作られた」が示す、歴史の罠(JBpress) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5202 国家鮟鱇さんのところでも指摘されていることですが、このJBP記事中の基的な事実の摘示は英語版と日語版のWikipediaのみに依拠しているうえ、意図的かどうかは分かりませんが歯ブラシと歯磨きを混同しています。 歯ブラシの起源(国家鮟鱇) http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20110107/1294372904 Toothbrush(Wikipedia英語版) http://en.wikipedia.org/wiki/Tooth

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  • 「正史」も「稗史」も読まない人の史論 - 枕流亭ブログ

    中国四千年は改竄史、真の歴史は日にあり 嘘で固められた南京大虐殺、尖閣事件・・・(JBpress 日ビジネスプレス) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4971 ……ツッコミがいのありすぎる記事ですね。「改竄」され「嘘で固められ」てるのはこの筆者さん(森清勇さん)の頭の中の「歴史」のほうだと思うのですが。あー、ちなみに「南京」とかには、僕はツッコまないですよ。そのへんはほかに適任者がいると思いますし。ただ中国の正史に関しては黙ってられないので、つっかえたら困るものを吐き出しておくことにします。 中国の王朝交代は「易姓革命」と呼ばれる。現実には新興する一族が、衰弱する王朝を武力で打倒して帝位に就くもので、権力の簒奪以外の何物でもない。新に帝位に就いた王朝の最初の仕事は、前王朝の歴史を書くことである。 「易姓革命」が実は武力による「簒奪」と言っている

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    mfluder
    mfluder 2010/12/09
    "過去は過去で「対話」が重ねられてきましたし、現代の歴史家は現代の歴史家で過去と対話すれば、いいわけです。仮に後継王朝がバイアス全開で前王朝をけなした史料を残したとしても、それはそれで重要な史料"
  • 最古の九九掛け算表は秦代 - 枕流亭ブログ

    http://tech.enorth.com.cn/system/2009/12/11/004322064.shtml もちろん、より古いのが今後出る可能性はあるけど。

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  • 「誕生!中国文明」展 - 枕流亭ブログ

    太宰府は九州国立博物館に「誕生!中国文明」展を見に行ったので、散漫ですが感想など。中国河南省出土の考古文物を日に借りてきて、東京→福岡→奈良と国博を巡回する特別展ですね。さすがは中原の地といいますか、一省のみの考古出土品でもあなどれないものがありますし、比較的新しい発掘成果も分かる構成になってました。 第1部 王朝の誕生 ■第1部 1 幻の初期王朝 夏(前2000年頃〜前1600年頃) 1 動物紋飾板 偃師市二里頭VI区11号墓出土 1984年 1個 夏時代・前17〜前16世紀 洛陽博物館蔵 2 爵 偃師市二里頭VII区出土 1973年 1口 夏時代・前17〜前16世紀 洛陽博物館蔵 3 鈴 偃師市二里頭V区22号墓出土 1975年 1個 夏時代・前18〜前17世紀 河南博物院蔵 4 玉刀 偃師市二里頭遺跡出土 1975年 1枚 夏時代・前17〜前16世紀 洛陽博物館蔵 5 甕 鞏義市花

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  • 法琳が「唐の李氏は拓跋達闍の子孫」と言ったとき、太宗が怒らなかった? - 枕流亭ブログ

    最近はTwitterなどで真偽定かならぬ情報の「拡散」がこわいご時勢のようです。と前置きして大した話ではないのですが、ちょっと気になった情報について一言。 http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200606-001&kiji_id=00247 初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の法琳が、太宗の面前にて道士との公開討論のさい、堂々と唐の李氏、鮮卑拓跋出の論をぶった時、太宗李世民がこれを咎めもせず、また怒りもせずにこれを黙って聞いていたという逸話 http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/reply.php?forum=1&post_id=139221&topic_id=2024&viewmode=flat&order= 初唐の廃仏論争がおきた時、高名なる仏僧の

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  • 「草原十八部」とはなんぞや - 枕流亭ブログ

    大陸の2005年の大河ドラマ『皇帝 李世民』(原題『貞観之治』)をちらほらと見ているのですが、主人公の唐太宗李世民が非常に地味で、ストーリーもストイックな趣き(寒い洒落)ですね。序盤は李元吉に、中盤は魏徴に、主人公がわれそうな勢いです。史実に比較的忠実ではあるんで、僕はツッコめて楽しいのですが、ドラマを純粋に楽しむ人にはあまり受けないかもしれません。 さて、このドラマ見てると、「草原十八部」という聞き慣れない語が出てくるんですよ。明らかに「突厥」を指しているんですが、なぜか劇中で「突厥」と呼ばれることはなく、「十八部(しーばーぶー)」「シーバーブー」と連呼されます。「突厥」が放送禁止になるようなデリケートな用語だという話は聞いたことがないのですが、もしや「突厥」(=テュルク)を敵役にすると、現代のトルコ人やトルコ共和国やトルコ系諸族に憚りがあるのかしらん。もしやトルキスタンを刺激してしま

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    mfluder
    mfluder 2010/03/31
    突厥