正月に書いたエントリ歴史修正主義の手口についてにコメントがありました。ブクマが増えてたりするけどどっかに貼られました? 以下 TT さんのコメントに対するお返事。 例えば、原爆や東京大空襲を否定するアメリカ人はいません(いるのかもしれませんが、少なくともそう言う本にはお目にかかった事がないです。正しかったという人はいますが)。 歴史修正主義の手口について - TTさんのコメント それは当たり前で、そもそも原爆投下は世界にその軍事力をアピールするためでもあったわけだし、原爆開発に参加した科学者たちも誇りを持ってやっていたわけです。事実自体を否定する動機がありません。だから原爆や空襲についてはその正当性が争点になります。*1 一方で南京事件は当時にあってすら不祥事だったのです。報道規制もあり戦時中は国民にはほとんど知らされませんでした。慰安婦にしても軍隊内では公然のものとしても、内地の国民には
小林よしのりさんが『ゴーマニズム宣言SPECIALパール真論 』というマンガを出版し、その中で、田中正明さんの松井大将日誌改竄問題について解説しているようです。 私はまだ内容を確認していないのですが、それを読んでの影響と思われる発言を少し抜粋してみます。 ・コチラの「136 【お詫び】掲示板データの破損について」コメント欄における潜水艦さんの発言 ・・・・・・ いままで、田中正明氏は藤原彰や中島岳志がやったような「改竄、誤読、事実隠蔽」みたいなのをしてたのかと思ってたが、そうではなかったことがよく解った。 南京話でも槍玉にあげられてる田中氏だが、よくいわれる「九百箇所の改竄」って、大半は誤字や旧漢字なんかを直したものだったと解った。 また、板倉氏が指摘したのもそうした個所への淡々としたものだったこと。それを田中氏の著書が目障りだった朝日新聞に、著書そのものの価値がないように報道利用されてし
当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していており、1869年に日本の明治政府が王政復古を朝鮮に通告したときも、中国の皇帝が朝鮮に下す「皇上」や「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に受け取りを拒否した。1876年の江華島事件を経て日朝修好条規が日朝間で締結されて国交は結ばれたが、日本は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させ、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた[3]。その後、李氏朝鮮は米国との条約提携を清朝に依頼し、天津で交渉にあたった李鴻章は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交は自主である」という条文を盛り込むことを試みたが、アメリカ側が属国(属邦)と条約は結べないとして反対したため断念した。しかしながら、李氏朝鮮の高宗は「朝鮮は中国の属邦であるが、内政外交
下関市教育長・嶋倉剛「朝鮮への植民地支配は歴史的事実に反する」 - Transnational History のコメ欄で「植民地支配ではない」という意見が吹き上がってまいりました。1日に3つも4つも長文コメされても自分はブログで活発に議論するほど時間に余裕があるわけではありませんので対応できません。で、自分と反対の意見だけでエントリのコメ欄が埋められていくのはやなんで以降すべての意見はこちらのコメ欄にするようにお願いします。はい、ではid:tsuki6pとid:winterseaのお二人が「植民地支配ではない」ということを論理的に立証してくれるそうです。 tsuki6p 2008/07/02 11:12 植民地の名前に拘って過去の文書に有ったなどと喜んでいますが、そもそも植民地支配とは具体的にどんな行為なのですかの規定が曖昧ですよね。辞書を持ち出して云々なんてナンセンスです。そんなに拘る
下記で言われている「似非科学」の問題とは、たぶん違うんだろうと思うんだけど、読みながらちょっと思ったので。 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080522/p1 「反歴史修正主義」という立場がある。 これは、歴史修正主義のなんに対して反対してるんだろうか。「客観的な真実の歴史を、自分の思惑に合うようにねじまげる」という行為に対してだろうか? ぼくはそうではなくて、そのような態度を、つまり「自分の思惑に合うようにねじまげる」ことが可能なものであるという態度を、「歴史」に対してとることによって、人間の、歴史(世界)に対する信頼を損なってしまうことに反対し、それに対抗するものだと思っているのである。 だから、「反歴史修正主義」というこの立場は、基本的に、人間が世界のなかに存在することの土台である信頼というもの、人間に対するある種の信を擁護することを、その本性とする
歴史修正主義とかの議論は率直に言って関心ない。よくわかんないのだけど、私を歴史修正主義者だと思って攻撃する人がいるみたいだけど、南京虐殺がなかったとかアウシュビッツはなかったとか思ってもいないしよって言うこともないしそもそもこの手の話題に人権問題以上に関心ない。 ただ、歴史の新説というのはえてして旧説の批判からできているので、旧説を元にしたイデオロギー的な主張に利さないことはある。ただ、その場合でも、単純に歴史学の枠組みで見ればいいだけのこと。つまり、歴史修正主義がどうのというより、単純に歴史学の枠組みで考えるだけでいいのではないかと私は思う。 あと、歴史というのはわからないことがあるし、わからない部分には多様な仮説はありうる。それは多様にありうるんじゃないかというだけで、これも歴史学で決していけばいいだけのことだと思う。 というか、こういうメタな議論そのものにあまり関心ない。 個別のディ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く