スズキ社長を務めた鈴木修(すずき・おさむ)氏が12月25日、悪性リンパ腫のため死去した。94歳だった。同社が27日発表した。1978年に前身の鈴木自動車工業の社長に就任し、2021年に会長を退任するまで40年間以上にわたって経営を主導し、スズキを世界的企業に成長させた。お別れの会を行うが日取りなどは未定。1930年に岐阜県益田郡下呂町(現下呂市)で生まれ、58年に鈴木自動車工業に入社した。2代

トヨタ自動車を世界有数の自動車メーカーに成長させた名誉会長の豊田章一郎氏が14日夕方、心不全のため亡くなりました。97歳でした。 豊田章一郎氏は、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎氏の長男で、昭和27年に会社に入り、昭和56年に当時の「トヨタ自動車販売」の社長に就任しました。 翌年には、戦後、経営危機により分離されていた製造部門と販売部門のいわゆる「工販合併」を実現しました。 その後は、合併により誕生した「トヨタ自動車」の社長として、トヨタ単独では初めてとなるアメリカのケンタッキー州に工場建設を決めたほか、カナダやイギリスなどでも現地生産を進め、世界有数の自動車メーカーへと発展させました。 平成4年にトヨタの会長に就任して以降は財界活動にも力を注ぎ、平成6年から4年間、経団連の会長を務めました。 また、平成17年に愛知県で開かれた「愛・地球博」の運営にあたる博覧会協会の会長を務めました。 平
2022年7月16日早朝、ジャーナリストの三本和彦氏(91歳)がご逝去されたことがわかりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 文/ベストカーWeb編集部、写真/三信工房、ベストカー ■日本の自動車産業とともに歩んだ70年間 三本和彦氏は1930年生まれ、東京都出身。都内入居中の施設でお亡くなりになりました。死因は老衰と見られます。 1950年代後半、東京新聞在籍時代から自動車に関する記事を執筆し、日本におけるモータージャーナリストの第一世代として活躍、業界の礎を作った功労者でした(ご本人をこの肩書で紹介すると、「モータージャーナリストなんて堅苦しい肩書なんてまっぴら、ぼくは単なるジャーナリストだ。自動車は人々の社会や生活の中にあるもので、そこから切り離して語れるものではない」と怒られました)。 日本に自動車産業が根付き、発展し、世界へ羽ばたいてゆく過程を見つめ続け、「羊の皮をかぶった
徳大寺有恒さんが亡くなりました。辛口の評論が、多くの人に愛された徳大寺さん。実はペンネームで、代表作「間違いだらけのクルマ選び」が生まれたのは経営していた会社の倒産がきっかけでした。 ■本名隠し自動車評論 徳大寺さんの本名は杉江博愛(すぎえ・ひろよし)です。「間違いだらけのクルマ選び」を出版する際、自動車メーカーを敵に回して仕事がなくならないようにという、編集者の配慮でした。幕末の剣豪小説に登場する人物の中から「出来るだけ偉そうなペンネーム」にしたそうです。 ■原点に進駐軍のアメ車 徳大寺さんは疎開していた水戸で終戦を迎えました。外車が見たくてよく東京に通いました。進駐軍のアメ車に憧れたこの体験が、自動車評論家の原点になりました。 ■倒産、極貧生活も 経営していたカー用品会社が倒産してしまい、極貧生活になったこともありました。借金取りにきた日本刀を持った暴力団員に取り囲まれたこと
自動車評論家の徳大寺有恒氏死去 「間違いだらけのクルマ選び」 新車批評の先駆け的な存在として知られる自動車評論家で元レーサーの徳大寺有恒(とくだいじ・ありつね、本名杉江博愛=すぎえ・ひろよし)氏が今月上旬、死去していたことが8日、親族への取材で分かった。74歳。東京都出身。 徳大寺氏はトヨタ自動車のレーシング・ドライバーを経て自動車評論家に転身した。自動車への深い愛情から辛口の批評で知られ、1976年に始めた著書「間違いだらけのクルマ選び」は人気シリーズに。「間違いだらけの…」は流行語にもなった。 コストや販売台数を優先する自動車メーカーを一貫して批判し、魅力のある車づくりを訴え続けた。ほかの著書に「ぼくの日本自動車史」や「58歳からの楽々運転術」などがある。39年生まれ。成城大卒。
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