『曝された生』で詳細に掘り起こされたウクライナの事例は、それそのものでも十分に興味深く示唆に富むものであるが、著者の放射線や原子力に対する姿勢も、わたしにとっては関心を引くものであった。本文の記述中に「生命の破壊」という表現が出てくる。研究者らしく、他の部分が具体的、そして抑制の効いた記述が多い中で、この比喩的な表現は、唐突感さえ覚える強い表現であった。著者が意図的にこの表現を使ったのか、あるいは無意識に出てきた表現なのか。もう一箇所の福島事故を受けての記述、「チェルノブイリの科学者が成し遂げられなかった疫学的知見の至的基準を築くことを期待している」と共に、著者のとらわれている部分を端的に示しているようにも見えた。 ここで述べられている「生命」は物質的な命と言うよりも、人間の生そのもの、人類の生命の営みそのものをあらわしているように読める。チェルノブイリ原発事故においては、確かに、緊急時に