*文学に関するmori-tahyoueのブックマーク (1,152)

  • 創業は易く守成は難しとは? 意味・原文・書き下し文・注釈

    出典:『貞観政要』君道(ウィキソース「貞觀政要/卷01」参照) 解釈:新しく事業を始めることよりも、その事業を維持し発展させていくことの方がいっそう難しい。 貞観政要 … 唐の太宗と魏(ぎ)徴(ちょう)や房(ぼう)玄齢(げんれい)ら臣下との間の政治上の論議を分類・編集した書。十巻40編。唐の呉(ご)兢(きょう)(670~749)の撰。ウィキペディア【貞観政要】参照。 貞(じょう)観(がん)十(じゅう)年(ねん)、太宗(たいそう)、侍(じ)臣(しん)に謂(い)いて曰(いわ)く、帝王(ていおう)の業(ぎょう)、草創(そうそう)と守成(しゅせい)と、孰(いず)れか難(かた)き、と。

  • 本当の「赤ずきんちゃん」── 突き放す古典文学 ──|小野泰 央|日文エッセイ125|日本語日本文学科|ノートルダム清心女子大学

  • 大伴旅人:酒の讃歌

    大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。 ―太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首(338) 験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(339) 酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ(340) 古の七の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし(341) 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし(342) 言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあるらし(343) 中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ(344) あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(345) 価(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈(あに)勝らめや(346) 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに

  • 14 好きな物、嫌いな物 其の参

  • 「九尾の狐」その起源と、変遷の歴史~ゆうきまさみらが考察

    ゆうき まさみ @masyuuki 「九尾の狐」というのは元々はいい神様だったらしいという話は置いといて。これが傾国の妖怪「玉藻前」に仕立て上げられたのは江戸時代のことらしい。これ和ファンタジーでしょう。んで、この妖怪退治に駆り出されたのが、上総介広常、三浦介義明、千葉介常胤ってんだから、歴史ファンにもたまらん。 2023-09-24 20:45:00

    「九尾の狐」その起源と、変遷の歴史~ゆうきまさみらが考察
  • よみうりランドの聖観音像、妙見菩薩像

    住所 稲城市矢野口4015-1 訪問日 2010年6月20日 この仏像の姿(外部リンク) HANA・BIYORI・聖なる森 拝観までの道 よみうりランドへの交通は、京王線の京王よみうりランド駅、小田急線の読売ランド前駅か新百合ケ丘駅からバス。京王よみうりランド駅前からはよみうりランド直営のゴンドラ「スカイシャトル」で行くこともできる。 原則火曜日がお休み(メンテナンス期間など臨時休業あり。夏休み期間などは無休)。 よみうりランドの北の端に「聖地公園」という不思議な空間がある。遊園地の入口からジェットコースターごしに白いパゴタ(塔)が見えるが、その周辺に塔や仏像を安置するお堂がある。 入口はアシカショーの横手。 当然のことながらほとんどの来園者はアトラクションを楽しむために来ているので、この公園まで足を運ぶ人は少ない。ジェットコースターのコースの脇やゴンドラの下の何となく寂しい小道をどんどん

  • 昔の少年チャンピオン(秋田書店)の編集は武闘派だったんだよ。 : 反省はしている。だが後悔はしていない!

    2010年12月24日22:02 カテゴリマンガ 昔の少年チャンピオン(秋田書店)の編集は武闘派だったんだよ。 これは有名な話ですけど、80年代当時の編集長、壁村 耐三(かべむら たいぞう1998年没 )が豪快な方で酒豪でケンカ早く、漫画の神様こと手塚治虫先生を殴ったり、リンゴを投げつけたり、原稿を破り捨てたという伝説があります。 マンガ以外にも、物のヤクザ・デビルを泣かしたとか、飲んでたたらケンカになり相手に刺されて、テープで傷口止めて仕事してまたその晩に飲みに出かけたなど。 凄い人ですw そんな当時の少年チャンピオン編集部を吾ひでお先生がマンガで描いています。 『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめ先生は大好きでしたので、サインペンで書きなぐった最終回には子供心に何があったんだろ?って思いましたからねぇ。 後に大泉実成の『消えたマンガ家』での当時の修羅場や大量の薬物(カフェインのアンプ

    昔の少年チャンピオン(秋田書店)の編集は武闘派だったんだよ。 : 反省はしている。だが後悔はしていない!
  • 本当は面白い最高の古典『論語』 『現代人の論語』 (呉智英 著) | 呉 智英 | 書評

    2003.12.20書評 当は面白い最高の古典『論語』 文:呉 智英 (評論家) 『現代人の論語』 (呉智英 著) 出典 : #文春文庫 ジャンル : #趣味・実用 どこが、「いいこと」が書いてないだ。書いてあるじゃないか、と、思うでしょ。しかし、続きがあるのだ。 「博奕(はくえき)なるものあらずや。これを為すは猶(なお)已(や)むにまされり」 先生は続ける。バクチというものがあるではないか。あれでも、何もせずにごろごろしているよりはずっといいのだ。 驚くべし。孔子は、「飽終日」の弟子たちに、さらに、バクチをやれと薦めているのだ。 論語に「いいこと」が書いてあると思っている人は、まさかこんなことが書いてあるとは思わない。実は、彼らは論語を最後まで読んでいない。先の言葉が出ている陽貨篇は論語全二十篇の第十七篇なのである。仮に最後まで読んだとしても、「いいこと」を求めている人は、バクチで頭

    本当は面白い最高の古典『論語』 『現代人の論語』 (呉智英 著) | 呉 智英 | 書評
  • アメリカの「ロストジェネレーション(失われた世代)」を知るための6冊 | 小説丸

    フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、フォークナー……「失われた世代」と呼ばれる作家たちの背景を代表作とともに解説! 1920年代から1930年代にアメリカで活躍した小説家たちは、失われた世代、ロストジェネレーションと呼ばれています。これはガードルード・スタインがヘミングウェイに投げかけた「You are all a lost generation.」(あなたたちは皆、失われた世代なのよ)という言葉が由来であり、広義では、20代の青年期に第1次世界大戦が勃発した世代のことを指しています。 近年では「自堕落な世代」(高見浩)とも訳されるこの世代の小説家たちはF・スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、ウィリアム・フォークナーと、いずれもアメリカ文学の代表作となるような作品を多く残しています。今回はそんな失われた世代の小説家たちについて、キーワードと代表作をもとに迫ります。 失

    アメリカの「ロストジェネレーション(失われた世代)」を知るための6冊 | 小説丸
  • 都々一坊扇歌の碑(どどいつぼうせんかのひ) | 常陸太田市観光物産協会公式ホームページ

    観光情報 都々一坊扇歌の碑(どどいつぼうせんかのひ) 都々一坊扇歌の功績を讃え建てられた「都々一房扇歌の碑」 幕末の大衆芸能の一つ、都々逸の創始者とされる都々一坊扇歌の功績を讃え、地元の有志たちが建立した石碑。昭和32(1957)年5月5日に扇歌の生誕155周年を記念して建てられたもので、磯部町の国道349号線沿いの渋江橋のほとりにあります。碑に刻まれた「藪鶯のわたしじゃとて鳴く音に変わりはあるものか」という歌からは、扇歌が生涯貫いた刻苦精進の精神が伝わってくるようです。 また、碑のかたわらには、『都々一坊扇歌』の著者で、評論家としても有名な木村毅が書したとされる「磯部たんぼのばらばら松は 風も吹かぬに 気がもめる」との歌が記された歌碑があり、一層の趣を添えています。 地区

  • 都々一坊扇歌堂

    国指定特別史跡「常陸国分寺跡」境内にあり,初代都々一坊扇歌を祀る。扇歌は文化元年(1804)現在の常陸太田市磯部に生まれ,江戸末期に都々逸節を広めた。芸人ながら茨城の反骨精神をもって,幕政の批判や洒脱な風刺を三味線にのせ,美声をもって唄いまくった。 堂は昭和6年,市内の有志が全国の都々逸愛好者より浄財を集め,昭和8年に完成した。 堂内には馬堀法眼嘉孝画伯の描いた扇歌の肖像画がある。また,130年忌を記念して「たんと売れても売れない日でも同じ機嫌の風ぐるま」の歌碑が堂の脇に,石岡都々一保存会によって建立されている。なお初代都々一坊の墓は,国分寺堂の裏にある。

    都々一坊扇歌堂
  • 芥川龍之介 亦一説?

  • 鴎外の書斎から:資料解説4

  • 俺とお前と大五郎

  • ソ連・地下出版のベストセラー酒クズ小説『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を読む - 関内関外日記

    酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行 (文学の冒険シリーズ) 作者:ヴェネディクト エロフェーエフ 国書刊行会 Amazon 書は1970年に執筆された。1970年のソ連。とてもじゃないがこれを共産党が許すとは思えない。だからこその地下出版。地下出版のベストセラー。そして、世界に広まった酒クズ小説の傑作。 冒頭からこんな具合だ。 クレムリン、クレムリン、と誰もが言う。クレムリンのことはあらゆる人から話には聞くが、自分で実際に見たためしは一度もない。もう何度となく、一千回も酔払って、それとも二日酔で、モスクワを北から南へ、西から東へ、端から端まで突っ切ってみたり、ただ無茶苦茶に歩き回ったりしたのに、クレムリンはただの一度も見たことはない。 昨日もついに見られなかった。ひと晩じゅうあの辺りをほっつき歩いて、それほど酔っていたわけでもないのだが、サヴョロヴォ駅を降りるとすぐに、手初めにズブロフカ

    ソ連・地下出版のベストセラー酒クズ小説『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を読む - 関内関外日記
  • 『増殖する俳句歳時記』検索: 角川源義

  • アルカリブログ:村上春樹「ある編集者の死〜安原顯氏のこと」(文藝春秋4月号) - livedoor Blog(ブログ)

    2006年03月10日 Permalink Comments(15) TrackBack(4) 身辺雑記 村上春樹「ある編集者の死〜安原顯氏のこと」(文藝春秋4月号) ■yahoo! でニュース(<村上春樹>直筆原稿が古書店に大量流出 編集者が無断売却 (毎日新聞) - 3月10日3時7分更新 )を見る。さっそく書店で「文藝春秋」4月号を買って読んだ。 「ある編集者の死〜安原顯氏のこと」は、村上春樹氏が、2003年に亡くなった編集者、安原顯さんについて書いた文章だ。新聞記事では、安原さんが生前に村上氏の原稿を古書店に売却したと書かれているが、村上氏自身の文章のなかでも、この「直筆原稿流出事件」が、この原稿を書く直接のきかっけになったとされている。 ぼくは晩年の安原顯さんがオンライン書店ビーケーワンに書いていた「日記」の担当編集者だった。新聞記事にも書かれているが、直筆原稿が流出されたとする

  • 作詞家・富野由悠季が語る“アニソン”の価値基準の変化

    今や“アニソン”と言えば、日のポップカルチャーとして世界中で愛されるドル箱コンテンツだが、80年代まではPOPSとしての認識はまだまだ浅く、ジャンルとしても低く見られていた。そんなアニソンがどのように市民権を得るに至ったのか? アニメ監督としてはもちろん、井荻麟(ペンネーム)という作詞家としても数多くの名曲を世に送り出してきた富野由悠季氏に話を聞いた。 →「初代から最新作まで歴代ガンダム作品の主題歌を総まとめ」← 作詞家・井荻麟(富野由悠季)/作詞リスト 40年前、「アニソン=子ども向け」という認識を“突破したい”と考えた ――これまで富野監督が井荻麟(いおぎりん)名義で作詞された楽曲は、実に80曲以上にのぼります。作詞家をされた経緯を教えてください。 【富野由悠季】それは簡単な話で、総監督権限です。当時、『ガンダム』の楽曲はキングレコードから出ていますが、それまでのアニメ音楽というは「

    作詞家・富野由悠季が語る“アニソン”の価値基準の変化
  • 出前授業 : 捜真女学校(中学部) - ニュース - ことば研究館

    国立国語研究所では、小・中学生が「ことばっておもしろい」と感じてくれるようなプログラムを実施しています。2023年6月21日(水)、柏野和佳子准教授が横浜市の捜真女学校を訪問し、「めざせ! 辞書引きの達人」というテーマで中学1年生のみなさんに出前授業を実施しました。 『岩波国語辞典 第八版』の編者も務めた柏野准教授は、最初に、『岩波国語辞典』の第七版と第八版における「オタク」の語釈の変化を生徒のみなさんに提示しました。同語の第七版での語釈は「自分の狭い嗜好(しこう)的趣味の世界に閉じこもり、世間とはつき合いたがらない(暗い感じの)者。」とネガティブな意味が顕著です。それを読み上げると、生徒のみなさんから「えー」と、意外とも失望ともつかない声が上がりました。それに対して第八版の語釈は、「特定の趣味的分野を深く愛好し、人並み以上にその分野の知識や物品を保有・収集したり、行動したりする者。」と現

    出前授業 : 捜真女学校(中学部) - ニュース - ことば研究館
  • 沼田城下の塩原太助巡り - 群馬B級スポット

    訪問日:2015/1/24 上毛かるたでお馴染み「沼田城下の塩原太助」 このフレーズは群馬県民なら誰しもが聞いた事があるだろう。 しかし、「塩原太助って何したの?」と聞かれれば返答に窮してしまう人も多い。 かく言う私も塩原太助の名は知るも、何を成し遂げた人かは分からない。 ならばと、塩原太助巡りと称して彼の足跡を追ってみる事にした。 まず太助の肖像画から見てみよう。 まあ何というか、上毛かるたの「ぬ」の絵柄がこれじゃなくて助かった。 おっさん札の内村鑑三、新島襄、田山花袋、新田義貞、船津伝次平らと見分けが付かなくなってしまう。 これらの看板は、みなかみ町の塩原太助記念公園内にある。 「沼田城下の塩原太助」と言いながらも、出身はみなかみ町(旧新治村)なのだ。 沼田城からは十数キロ離れているが、ここも沼田城下に含まれるのだろうか。 太助の生い立ちをざっと紹介すると、 1743年に新治村の農家に