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  • 中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線

    中国中華意識は有名ですが、実は、中国北地の北方遊牧民族国家や中国周辺の国家の中にも、中華意識を持っていた国はいくつもあります。そうした国々と比較しつつ、倭国について検討したのが、 川芳昭「《日側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 (北岡伸一・歩 平編『「日中歴史共同研究」報告書 第1巻 古代・中近世史篇』、勉誠出版、2014年) です。日中国韓国は、歴史観の違いによってこれまでいろいろな問題が起きてきましたが、このは書名が示すように、日中国の学者が協議してそれぞれの視点を示し、ともに認めることができる事実を明らかにしようとした試みの一つです。川氏は、外交面などに注意している東洋史学者です。 川氏のこの論文の次には、王小甫「《中国側》七世紀の東アジアの国際秩序の創成」が掲載されています。このように、諸国の研究者がそれぞれの視点で意見を出し合い、協議していくことが大事です

    中華意識を持ったアジア諸国の一つとしての倭国:川本芳昭「《日本側》七世紀の東アジア国際秩序の創成」 - 聖徳太子研究の最前線
  • 指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】 - 聖徳太子研究の最前線

    2月14日に小学校や中学校などの指導要領の改定案が公表され、新聞などでも報道されました。その歴史教科書の改定案を見てみました。文部科学省は、パブリックコメントを受け付けるとのことですので、出しておく予定です。 報道によれば、文科省の説明としては、聖徳太子という名は没後になって使われるようになったため、歴史学で一般的に用いられている「厩戸王(うまやどのおう)」との併記の形とし、人物に親しむ段階である小学校では「聖徳太子(厩戸王<うまやどのおう>)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王<うまやどのおう>(聖徳太子)」とする由。 これは奇妙な話ですね。後代の呼び方はいけないのであれば、天皇の漢字諡號は奈良時代になって定められたのですから、欽明天皇も推古天皇も天智天皇も天武天皇も使えないことになります。さらに重要なのは、奈良時代から用いられて定着した漢字諡號と違い、「厩戸王」という言葉は、使われた証拠がま

    指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】 - 聖徳太子研究の最前線
  • 大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り - 聖徳太子研究の最前線

    道教学会の学会誌、『東方宗教』の最新号がやっと届きました。奥付は例年並みに「平成二十二年五月五日 印刷」で「五月十日 発行」となっていますが、実際に届いたのは一昨日(6月7日)、抜刷とPDF入りのCD-ROMが届いたのは昨日です。 もっとも、私の勤務先の学部の論集などは、かつては奥付にある発行月日より半年遅れで配布などということもしばしばだったとか。私自身にしても、SAT(大蔵経テキストデータベース研究会)の何十人もの仲間たちで苦労して作り上げた大正大蔵経の電子データを初めてインターネット公開した際は、技術担当の師茂樹さんと、連日、睡眠不足気味で作業したものの、約束していた年度内公開より10時間ほど遅れてしまったため、当時のホームページには「3月31日34時公開」などと表示したものでした。あれは誤入力ではなかったんです。最近でさえこれですから、まして古代の聖徳太子関連文献となったら……

    大山誠一「聖徳太子架空説」の誤り - 聖徳太子研究の最前線
  • 聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか - 聖徳太子研究の最前線

    「聖徳太子 最近の説」と入力してあれこれ検索していたら、ヒットしたうちの一つが、 宮﨑健司「″和国の教主″としての聖徳太子」 (真宗大谷派教学研究所編『ともしび』第817号、2020年11月) でした。PDFで読めます(こちら)。 宮﨑氏は真宗大谷派の大学である大谷大学の教授であって、古代の写経について綿密な研究をされている研究者です。この文章は、2020年1月の東願寺日曜講演をまとめたものである由。ですから、最近の聖徳太子論の一つですね。 宮﨑氏の所属と講演の性格上、当然のことながら、熱烈な聖徳太子信者であった親鸞が読んで影響を受けた聖徳太子伝、つまりは『聖徳太子伝暦』と盛んに作られたその注釈の話を中心としつつ、聖徳太子研究の現状について簡単に紹介しています。 宮﨑氏は、聖徳太子という呼称については、751年の『懐風藻』に見えるため、「八世紀なかばを上限として成立したといえるかと思いま

    聖徳太子という呼称を最初に用いたのは誰か、「厩戸王」と呼ぶのはなぜまずいのか - 聖徳太子研究の最前線
  • 民衆とは縁が薄かった「憲法十七条」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回の記事で、「憲法十七条」第一条の和こそが太子の中心思想であって日文化的伝統となってきたとする考えが広まったのは、実は昭和になってからのことだと書きました。この点について、少々補足しておきます。 「憲法十七条」は『日書紀』に全文が掲載されているのですから、聖徳太子を尊重する人であれば、「憲法十七条」を重んじるのは当然です。しかし、太子信仰が各地の民衆の間にまで広まっていった際、強調され尊重されたのは、守屋征伐、超人的な言行、観音の化身、慧思の後身、浄土往生の導き役、未来の予言、戦の神様、大工などの神様などといった側面でした。「憲法十七条」を太子尊重の最大の根拠とするような庶民は、まずいなかったと思われます。 『日書紀』は宮中などで講読された際は、もちろん、「憲法十七条」も講義されましたし、法隆寺などでも、典拠の解明を中心にして研究がなされていたようです。しかし、太子伝説に関する書

    民衆とは縁が薄かった「憲法十七条」 - 聖徳太子研究の最前線
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