天智天皇から順徳院まで100人の歌を1首ずつ集めた『百人一首』は、かるたで広く親しまれ、漫画や小説の題材にもなっている。その撰者(せんじゃ)は、鎌倉時代前期の歌人・藤原定家(1162〜1241年)というのが、一般的にはほぼ通説かもしれない。だが、第一線の和歌研究者16人による最新の論集『百人一首の現在』(青簡舎)を読むと、そうとは言えないようだ。編著者の一人、田渕句美子・早稲田大教授(65)に聞いた。 (北爪三記) 「もう何年にもわたって考えてきて、やはり撰者が定家とはとても思えない、と。ただ、すごく大きなテーマなので、最初に言うのはかなり勇気が必要でした」。田渕さんが、二〇一九年の研究会での発表と、それに続く翌二〇年の論文刊行当時を振り返る。 『百人一首』の成立に関する手掛かりの一つは、定家の日記『明月記』。一二三五年五月二十七日に、定家が「古来の人の歌各一首」を蓮生(れんしょう)(宇都