葬式の葬列の写真とか、出棺のときにみんな並んで記念写真とかというのは調査でみたことがあるけれども、死んだ人の写真を撮っているというのはあまりみたことがない。 コメント欄に書いたことの補遺 ここで、 自分の携帯には、大切な人の最期の写真が入っている。 その携帯を自分はいつも持ち歩いていて、見ようと思えばいつでも見られる。 たとえもう二度と会うことができなくても、いつもそばにいてくれる。 そんな“お守り”のようなものに、その写真はなっていくのではないだろうか。 こういったことが述べられているが、こういう感情なら理解できる。死者の遺髪や遺品とかそういうものと同じ感じなのだろう。写真論というよりも、携帯電話機論として語るほうが妥当ではないだろうか。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060216-00000066-mai-soci <お葬式>カメラ付き携帯で最
昨秋の発売直後に買って読んだものの,途方に暮れていたのが伊藤剛(id:goito-mineral)『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』(ISBN:4757141297)。 平易な文章で書かれているのに,どうにも理解できないでいた。昨日,文学部の院生が開く読書会での題材に取り上げられていたので,討議に参加させてもらった。3時間ほど話し合って,ようやく着眼点らしきものが見えてきたので,備忘録として書き残しておくことにします。 この本が提示したマンガの分析枠組みは,次の2つ。 キャラ/キャラクター フレームの不確定性 後者については,別な参加者が論文のネタにしているところのようなので,ここでは触れないでおきます。 端的に言ってしまえば,概念の不確定性と射程範囲の不明瞭さが本書の分かりにくさを生んでいる理由でしょう。 例えると,鍛冶師が多機能スイスアーミーナイフを売り出したけれど,
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★中谷礼仁『セヴェラルネス——事物連鎖と人間』(鹿島出版会、2005/12、amazon.co.jp) 事物は時間を抹消し一気に私たちの眼前に現れる。 この当たり前の事実に、どのように驚くことができるかによって人はさまざまな方向に思考や創造の道を見出してきた。うつろいゆく陽光をとらえようとして何枚ものカンバスを並べるモネ。運動のさなかにある物質を静止した絵画にあらわそうという無理難題に挑む未来派。自作のガラス作品に生じたひびをむしろ愛すると言ったデュシャン。一見運動そのものをとらえていながらそれ自体が運動の痕跡の記録にほかならないフィルム。さまざまな時間論。過ぎ去った事物の痕跡から生じた出来事の前後を秩序だてようとする歴史学や考古学。精神に生じた諸変容をその痕跡から読み解こうとする精神分析。起きてしまった事件の痕跡だけを手がかりに出来事を再構成する探偵小説……。というよりも、そもそも私たち
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