ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (5)

  • 「教育」と「学習」の非対称性・非対応性 - shinichiroinaba's blog

    教育」と「学習」とは必然的には結びついていない。人間は(そして多くの高等動物も)学習することなしにはおそらく生きてはいけないが、「教育」を受けることなく生きていくことはできる。 「教育」はせいぜい「学習」のための条件を整えること以上のものではない。すなわちそれは「学習」を包囲する権力作用である。だからそれ自体は――たとえ人間にとって不自然・非来的であっても――別によくもわるくもない。 実際問題として世界は非対称的である。とりわけ時間軸に対して非対称的である。生き物は所与の環境に適応する形でしか生きてはいけない。人間もまた例外ではない。ただ人間的環境の中には、いわゆる「公共圏」もまた含まれてしまう。それゆえに人間はしばしば、この非対称性を忘れてしまう。実際「公共圏」とは、この非対称性を馴致したり無害化する役割を果たしているといえなくもない。しかしそれは決して、この非対称性を解消しはしない

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    moroshigeki
    moroshigeki 2010/01/20
    状況に埋め込まれた学習
  • 批評の方法としてのファンフィクション(続) - shinichiroinaba's blog

    断片的メモ。 *近代文学のオリジナリティ、sincerityへのこだわり以前の文芸を見れば当然ながら、伝統的に共有された主題の使い回しというものは散々普通に行われてきたことであるが、しかし近代においても演劇というジャンルははっきりと「同じ主題の変奏」という作業に自覚的にかかわり続けてきたはずである。また近年のオタク系サブカルチャーのいわば「通俗的メタフィクション」もある意味で演劇的だ。そこではキャラクター達は物語を文字通り「演じている」。だから悲惨な死を遂げた人気キャラも、あとがきまんがなどでにこにこと登場して漫才を続けるのだ。 *要するに模倣作やファンフィクションはオリジナルに対する意識裡無意識裡の批評作業なのであり、そこから逆算してオリジナルの含意やポテンシャルを明らかにする手がかりにもなりうるということなのだが、ファンフィクション、あるいはパスティーシュという現象は結構歴史的に由緒正

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  • 『オタクの遺伝子』続編のための覚書 - shinichiroinaba's blog

    方法論的メモ オタク系サブカルチャーの研究をポストモダン社会論として行うことにはそれなりの危険がある。近年のマンガ研究において浮上した「反映論」と「表現論」との対立という偽の構図に照らしていえば、もちろん「表現論」が正しい――というかその次元を踏まえずにはマンガとか映画とか文学を社会学の素材として用いることに意味はない。「反映論」はそれなりに根拠はあるにしても、必ずしも自明ではない前提――芸術作品だのエンターテインメントだのにおいて表現される物語その他の内容が、現実社会において生起している現象、問題を、デフォルメしつつ有意味な形で表現している――に乗っかっている。しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。 という

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  • 最近気になったものを抜書き - shinichiroinaba's blog

    不可能性の時代 (岩波新書) 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 191回この商品を含むブログ (169件) を見る 『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で、分析・解釈されているいくつものゲーム小説を通覧することから直観できることは、まずは次のことである。すなわち、オタクたちは、あるいはより広く(オタクたちを生み出した)現代社会は、終わることの困難に直面し、もがいているのではないかということ、これだ。ゲームや、ライトノベル、アニメの中で、「反復」という主題がやたらと反復されているのである。反復する時間の中に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない、という主題が、作品横断的に、あまりにも頻繁に登場するのだ。ゲームにおいては、この反復を何とか切り抜け、真の終わりをもたらすことが、目標となる。(196頁) たぶん

    moroshigeki
    moroshigeki 2009/01/22
    東「ゲーム的」批判(ギャルゲーを一般化できるか問題)/RPGとAVGの比較
  • 「続・ゲームと公共性」をやりたいのだが - shinichiroinaba's blog

    つまり http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629/p3 の続きを書きたいのだが、思いつきの垂れ流し以上のちゃんとした議論を展開するのは相当に大変ではないですか? ニコニコ動画を見ていて気になることのひとつが、テレビゲーム、主としてRPGのリプレイの隆盛であり、更にはそこからの様々な派生物である。リプレイの中において「やりこみ動画」はもちろん一定の地位を占めているが、興味深いのが「実況」「フルボイス」であり、さらにはそこからさらに派生してくる、何と命名してよいかわからないがとりあえずニコマスに敬意を表して「架空戦記」と呼んでおくか、RPGやAVGを素材とし、それを微妙に再編してオリジナルストーリーを展開するという妙な遊びである。ある意味、スタンドアロンのシングルプレイRPGを用いてTRPG的インプロヴィゼーションをやっている、といえようか。

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