タグ

存在論に関するmorutanのブックマーク (8)

  • 坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』 - katosのブログ

    ヨーロッパ精神史入門―カロリング・ルネサンスの残光 坂部 恵 岩波書店 1997-05-16 売り上げランキング : 362162 Amazonで詳しく見る by G-Tools 『ヨーロッパ精神史入門』は、読み進めるにつれて高まる興奮を抑えられないほどの含蓄にあふれただった。ただし裏返しに言えば、ここには含蓄しかないので(短い講義メモのようなものを25回分集めたであり、詳細な文献改題や論証などはないので)、書に何かを見いだした読者は、坂部恵が数行で書いていることの意味を自力で正確に理解し、その解釈や問題提起の妥当性と射程をたしかめるために、膨大な時間と知力を費やさなければならないorz。先が思いやられる……。 気を取り直して、いちばんのポイントだけ記すならば、近代の思潮における過度の唯名論的傾向に抗して、(スコラ的)実在論を復権させようということである。この縦糸を象徴する叙述として

    坂部恵『ヨーロッパ精神史入門――カロリング・ルネサンスの残光』、坂口ふみ『〈個〉の誕生――キリスト教教理をつくった人びと』 - katosのブログ
    morutan
    morutan 2011/10/08
    神学(普遍論争など)から哲学へ移行するヨーロッパの精神史について。個の誕生と啓蒙主義人文家が創りだしたヒューマニズム-<人権>概念の関係まであるとありがたいんだけど
  • ハイデガーの思想 (ハイデガーノシソウ) - 関心空間

    morutan
    morutan 2011/06/21
    木田元さんの新書のあれ。抜粋中心で便利
  • 道元 - Wikipedia

    道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月26日)- 建長5年8月28日(1253年9月29日)[3])は、鎌倉時代初期の禅僧[4]。日における曹洞宗の開祖[4]。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄[4]。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている[5]。 生い立ち[編集] 道元は、正治2年(1200年)、京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」[要出典]、「文殊丸」[6]とされるが、定かでは無い[7]。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣の源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣の松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘[8]にて生まれたとされているが、根拠と

    道元 - Wikipedia
  • エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia

    エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg [ˈsvêːdɛnˌbɔrj] ( 音声ファイル), 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。 生涯[編集] 父イェスペル・スヴェードバリ(Jesper Swedberg)は、ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した人物である。エマヌエルは、その次男としてストックホルムで生まれる。11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェー

    エマヌエル・スヴェーデンボリ - Wikipedia
  • バールーフ・デ・スピノザ - Wikipedia

    バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日[1])は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの肖像は1970年代に流通していた

    バールーフ・デ・スピノザ - Wikipedia
    morutan
    morutan 2011/04/29
    スピノザはよくわからんが、私たちがものを見る力も神から与えられていて、見えるものはその力の効果であって、神自体は無限でそのものとして存在していて神自身を無限に生み出し続けているのである。
  • 森有正 - Wikipedia

    森 有正(もり ありまさ、1911年11月30日 - 1976年10月18日)は、日の哲学者、フランス文学者。 人物[編集] 東京府豊多摩郡淀橋町角筈(現在の東京都新宿区西新宿)生まれ。明治時代の政治家森有礼の孫に当たる。父の森明は有礼の三男で、有馬頼寧の異父弟、キリスト教学者、牧師。母は伯爵徳川篤守の娘。祖母寛子は岩倉具視の五女。妹は世界平和アピール七人委員会の委員を務めた関屋綾子。 経歴[編集] 生後間もない1913年に洗礼を受けてクリスチャンとなり、6歳からフランス人教師のもとでフランス語、後にラテン語を学んだ。暁星小学校・暁星中学校から東京高等学校 (旧制)を経て1938年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業(卒論は『パスカル研究』)、同大学院を経て東京帝国大学の特研生、副手、助手を歴任。傍ら東京女子大学や慶應義塾大学予科などで講師を務め、フランス思想・哲学史を講義した。旧制一高教授

  • 隙あらば箱の中に隠れます(狭いところ大好き) (@ねこったー) だからと言ってわざわざ棚の上に上って、箱の中に隠れる必要はないのではないでしょうか?(@ねこったー) >「必要や合理性ではなく私の実存の問題なのです(にゃー)」.........なるほど「隠者」というわけですな?(@ねこったー) >「“隠者”とは失礼な。私はいつも隠れているわけではないですし、よしんば隠れているとしても、だ。隠れているのが私なのか、あなたが私から隠れているのか、その違いはどこにあるというのですか?(にゃー)」(@ねこったー)

    When a thing has been said and well, have no scruple. Take it and copy it. -- Anatole France ※いまのところのこのたんぶらで扱ってく話題についてはこの辺を 、生態についてはこの辺をご覧ください 隙あらば箱の中に隠れます(狭いところ大好き) (@ねこったー) だからと言ってわざわざ棚の上に上って、箱の中に隠れる必要はないのではないでしょうか?(@ねこったー) >「必要や合理性ではなく私の実存の問題なのです(にゃー)」………なるほど「隠者」というわけですな?(@ねこったー) >「“隠者”とは失礼な。私はいつも隠れているわけではないですし、よしんば隠れているとしても、だ。隠れているのが私なのか、あなたが私から隠れているのか、その違いはどこにあるというのですか?(にゃー)」(@ねこったー) …….なるほど失

    隙あらば箱の中に隠れます(狭いところ大好き) (@ねこったー) だからと言ってわざわざ棚の上に上って、箱の中に隠れる必要はないのではないでしょうか?(@ねこったー) >「必要や合理性ではなく私の実存の問題なのです(にゃー)」.........なるほど「隠者」というわけですな?(@ねこったー) >「“隠者”とは失礼な。私はいつも隠れているわけではないですし、よしんば隠れているとしても、だ。隠れているのが私なのか、あなたが私から隠れているのか、その違いはどこにあるというのですか?(にゃー)」(@ねこったー)
  • 曇天、降雨確率50% - finalventの日記

    とのこと。降らなそうな感じもする。ばたばとしてネットが遠くなるようにも思うし、そう思うときネットもまた私を遠く扱うのかもしれない。あるいは、ネットと思っているもの思われているものはある種の幻想だろうし、もちろん幻想なんて最初からわかっているさという意味ではなく、ある種のリアリティとしての幻想ということだ。 エリクソン周りのなどを読み、いろいろ思うが、うまく心にまとまってこない。心のまとまり方というか思いの動かし方に私には何か癖のようなものがあり、その癖自体がそれほど自分の現状というか生き方の打開のツールとしては機能してない。あるいは原因的思考というのだろうか。 そういえば昨日道元の、「万法ともにわれにあらざる時節」というのを木立を見ながら、擬態する蛾などを見ながら考え込んだ。この句の解釈だが、通常は、諸法無我として、万法の側にそれぞれの我(アートマン)を否定すると読まれる。が、私はこれは

    曇天、降雨確率50% - finalventの日記
    morutan
    morutan 2007/07/10
    「他者としての世界の存在への実感」ということだけど、存在が「この今」に断片的に散りばめられているのは分かるんだけど、その先がよくわかんない (論理的帰結としては「いまの断片」が「他者性」につながる?)
  • 1