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ブックマーク / docseri.hatenablog.jp (2)

  • ググれ文化圏と教えて文化圏 - 妄想科學倶樂部

    モヒカンはmixiでもモヒカンだった - アソコがモヒカン族 - モヒカン族経由でmixiの「ググれ」コミュに於ける「ググれと一蹴するのは横暴な気がするのですが」トピックを読む。機種依存字で項番号を振るトピック作成者に対し、わざわざ項目に曜日を振って*1答える行為自体が「ググれ」と同じで無自覚な行為に対し注意を喚起する意図があるのだろう。 ここでの議論は平行線を辿っている*2ようだが、すこしばかり「どちらが合理的か」考えてみたい。 ググれ派の主張は大まかに言って(多分)以下のようなものだ。 自己学習の上での質問ならば答えるが、そうでなければまず学習方法を学ばせる必要がある 学習習慣の無いものに答えだけ教えると、頼り切りになって宜しくない 学習を啓蒙することで「教えて」の割合を減らし、できれば彼ら自身教える立場になって欲しい これをして「魚をくれというものに釣り竿の効果を啓蒙する」と表現して

    ググれ文化圏と教えて文化圏 - 妄想科學倶樂部
  • ゲームの本質の話 - 妄想科學倶樂部

    来は任天堂が次世代ゲーム機(Revolution)の情報を一部明らかに | スラド - 妄想科學日報へのコメントの筈だったが、考えるうちに長くなったので文に書くことにする。 ゲームについて語る以上、まずゲームを定義せねばならない。 私はゲームの定義について、 ルール(制限)があり、 達成すべき目的があり、 達成を阻む障害があり、 プレイヤーが目的達成のために意志決定できるもの と考える。 例えば人生ゲームは(この定義に於いて)ゲームとは呼び難い。その行動は一切がランダムに処理され、プレーヤーに意志決定の余地がないからだ。 その上で、ゲームの面白さというものについて考えてみる。 ゲームの面白さとは何か。我々は何を面白がっているのか。一口にゲームと言っても幅広いが、共通要素としての「面白さ」は存在するのか。 ところで先程の定義のうち、人が関わるのは4の「意志決定」だけである。1〜3だけなら

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    muamqm
    muamqm 2005/05/20
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