ブックマーク / mailinglist.hatenadiary.org (119)

  • 『裏声で歌へ君が代』 - 柳田威生blog

    読みはじめる。『たった一人の反乱』を読んでいないので見当違いかもしれないが、非政治的人間の政治小説(箱の文句)というのは、なんだか吉田健一なきあとに丸谷がおもむろに吉田が嫌いそうな題材に着手した感じをうけるのである。丸谷は三島を低く評価しつつも、同世代だからか、感性に似通ったところがある。そういえば『笹まくら』なども、あまり吉田が好みそうな小説とも思えないが、生前吉田は丸谷の小説についてはどうコメントしていたのだろう。

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  • 「悲しい顔」そのほか - 柳田威生blog

    小谷野さんが書いてるのを読んで、あれあれ吉田修一は映芸に登場したことがあったっけと思い、『一冊の』を求めて(美人書店員はただでくれた。「フリーペーパーですからそのままお持ちください」「100円って書いてあるけど」「大丈夫です。お包みしましょうか?」)読んだら、ああ、なるほど、であった。 ところで金井美恵子はあいかわらずのイメージ批判に飽きる様子もなく、よその書き手が、古き良き卓を映像にのこしていた映画作家として小津安二郎を挙げているのを攻撃していて、案外ソマツな事を描いていたことを例を列挙して示している。DVD万歳である。 橋田壽賀子や吉田らが「悲しい顔」という語を用いているのをからかっていて、ようするに誤用だからというわけだが、これはちょっとつっこみが浅い。「人の心なんて分かるわけがない」派の金井には理解が及ばないことかもしれないが、これ、要するに「その顔をした人はいま悲しいと思っ

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/12/29
    それから橋田批判・橋田おちょくりなんて古いんだよね……。 / ですよねえ……。
  • 病気としてのランキング癖 - mailinglistの日記

    もちろん自我は必要悪であり、持病のようなものである。河野雅治氏は、プロに徹して機械のように日政府の宣伝活動を行わなかったがゆえに、菅直人から「罷免」されたのである。「私はあまりロシアに詳しくないので」というのは傑作である。なにしろそこは「私」について語る場ではなかったのだから。自我は必要悪であって、それに固執すると、ほら、身を滅ぼすのである。「専門バカ」というのは、自我を尊重する立場から正反対の者へ投げられた罵言にすぎない。 ふと思ったのだが、私にはランキングの癖がない。渋谷に勤務するようになって、文化村通りを行き交う消費者たちが、いかにランキングに拘束されて往来を通行するかを痛感しているところである。もちろん、かれらの言葉には、透かしのように「私私私私私私私私」と刻印されているのである。ランキングにすると、情報も圧縮できるしね(みんな早口なんだ)。

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  • 愚痴をきかされたくなかった蓮實重彦 - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20101219 大事なのは、丸谷才一じしんは別に徴兵忌避もしてないし、国学院大学に骨を埋める気もなかったであろうということだ。一介の自営業者としての自己をたんたんとリアリズムで描く小説をものする気はさらさらなかったということ。小説が主人公を要求し、ヨナや浜田を召喚した。 http://d.hatena.ne.jp/mailinglist/20100724/p2 蓮實としては戦争に行ったことがないから、行って帰ってきた人間(丸谷)の愚痴を聞かされたくなかったというに過ぎないんじゃないでしょうかね。「私小説でない小説がそもそもあるか」というのは相手に先んじてする開き直りとしか思えない。そういう蓮實が、『陥没地帯』や『オペラ・オペラシオネル』みたいなモロに西欧に憧れてかつわたくし性から遠い作をのこしている。「後進国的」というの

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  • 読まれる努力 - 柳田威生blog

    美しいアナベル・リイ (新潮文庫) 作者: 大江健三郎出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2010/10/28メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 18回この商品を含むブログ (12件) を見る文庫コーナーで一瞬わが目を疑った。改題までして、こんな大家も、(若年層に)読まれる努力をしているんだなあ。

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/12/12
    もちろん、「司書が『ろーたし』も読めないで」という一件を思い出した。
  • 渋谷という街 - 柳田威生blog

    小林信彦がNHKがあるあたりを、かつて国木田独歩が「武蔵野」に書いたのだと、隔世の感をこめて語っていたのだが、残念なことに(?)、私が歩いたのは日曜の夕暮れで、その寂しさはなかなかのもので、小林とは反対に、「ここがかつての武蔵野の舞台だって? さもありなん」と思ったのだった。代々木の競技場に抜けると、なにかバンドのライブがあるらしく人がごったがえしていて、そのあまりの対比にめまいがするようだった。 文化村通りに並ぶビルは、どれも10階にぎりぎり行かないようになっているらしく、なんでだろうと思っていたが、文化村通りが狭いためであろうか。

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/12/11
    あ、9日にちょうどあそこのライブに行った。
  • 『発語訓練』のころ - 柳田威生blog

    小林信彦の芸人評伝を愛読している友人が、しかし小林の小説のほうはつまらないと決まり文句のようになんどもくり返すうちに、ふつふつと小林への関心が再燃して古い文庫を買ったのである。 『素晴らしい日野球(「発語訓練」改題)』というのをぱらぱら眺めていたら、「到達」という短編のなかで、これは発狂した私小説家の短編?という体裁なのだが、「私は銘柄にはまったく興味がない。」ではじまる段落に、行も変えずに、「ローデンストック」だの「マルウィッツ」だの「ポロ」だのブランド名が頻出していて、ようするに「この話者はなんだかおかしいぞ」と読者に思わせるために作者が仕掛けた「とっかかり」なのだが、どうもうまくないのだ。 そういえば、ブランドということで連想したわけだが、私は田中康夫のデビュー作も読み通してない。『優雅で感傷的な日野球』も、そう。両者にかかわる名詞群には「江藤淳」というものがあるが、小林とたぶ

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  • アフターダーク - 柳田威生blog

    小谷野さんとツルシ元編集長のやりとりを、私はちょうど『レフト・アローン』の復習として受け取ったのだった。 ふと思うのだが、宅八郎が切通理作の電話番号を誌面にのせて、しかし何も起らなかった場合というのを考えてしまうのだ。 おととい見た『パトリオット・ゲーム』でも、ハリソン・フォードがはっきり発音していた電話番号を、しかし字幕は下2桁を伏せ字にしていたのである。神経過敏なことだと思うが、「まあ仕方がない」。 出版社にとっては、実害があったことはオマケである。その遊びは、遊びじゃないよ。出版社のジャッジが下ったのだった。なんともう15年もまえのことだ。 遊び。なにが遊びなのかは、じつはよくわからないのである。「の内容を気にするなんておかしいよ。価格を抱かせて店頭に並べているだけだもの。消費者は、価格のぶんだけ責任を負えばいい」。 なぜ、ツルシ元編集長が切通についてコメントしたくないのか、私に

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  • うう… - 柳田威生blog

    自分の健康への気遣い無用としながら、見知らぬ他人の健康を気遣うあなたの心得何ならん。 そんなに情報や知識が大切なのかね。早老症で生まれた人には「あなたはすぐに死ぬよ」とでも告知するのか。まるでブラックジャックのように。

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  • 映画と音楽 - 柳田威生blog

    なにしろ映画以前にオペラというものが西洋にはあって、それには序曲というものが奏されていた。開始時間ぴったりにはじまると、遅れてくる客が物語からおちこぼれてしまうのでこういう措置が必要だったのだろう。 『2001年宇宙の旅』は、ソフトによっては公開時の序曲がのこっているバージョンがあって、退屈である。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、この伝統にのっとって映画の冒頭に序曲シーンをつけた。ほとんど冗談すれすれの懐古趣味である。 物語に酔っている時に音楽は余計である。『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の音楽も、くどくて、わずらわしかった。監督が画面に自信をもてないときに音楽に頼るのだろうなくらいに私は思っている。 マカロニ・ウェスタンなど、私はそんなに数をこなしていないが、あれには音楽が必須なのだろうと思う。音楽込みでなりたつ世界なのだ。過剰さを形式として安定させたときに、芸術はあるいは芸能になる

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  • 物語と疑似イベント、子供の視線 - 柳田威生blog

    ついちらちら『未知との遭遇』を眺めてしまって、そして思ったのだが、スピルバーグの成功の秘密についてである。 さすがにもう宇宙人を信じていないので、終盤に登場する宇宙人にはいまとなっては「それはないわ」としか思わないのだが、中盤の情報操作や軍隊によるデビルズタワー封鎖などにはいまだにリアリティを感じてしまって、それであっと思ったのである。「そうか、スピルバーグは疑似イベント演出の名手なのか」と。 物語とは、たとえば私が直近に見た『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』のようなものである。言いたいことのために、舞台とキャラクターを用意して、現実の風景のなかに俳優を演技させて映像を得る。 スピルバーグの映画では、無名の人が無名の人のままで画面をうろうろしていて、それを私たちは「リアリティがある」と感受するのである。その風景は、ようするに疑似イベントなのだ。 『シンドラーのリスト』あたりからスピルバーグ

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  • う〜ん - 柳田威生blog

    http://twitter.com/kokada_jnet/status/28895008543 これだとまるで若い頃の筒井は反権力で、勲章なぞもらうものかとうそぶいていたみたいに聞こえますが、別に筒井にはそんな思想はなかったのと違いますか。マスコミこそあらたな権力というのは、筒井の初期からのモチーフですし。 「玄笑地帯」だったか、筒井は、日のノーベル賞受賞者だか誰かだかが感謝かたがた周囲におもねった発言をする傾向(みなさまのおかげです、という例のあれ)にコメントしていたはず。 まさに唯々諾々と受けてあまり騒がなかったことこそが、筒井のダンディズムと違いますか。 断筆だって、人が状況を良しとしたから特定の出版社ととりきめをかわして限定的に解除したわけでしょう? それを「緊張感が薄れた」と軽々に表現するのはどうか。

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/10/28
    まさに。
  • 「ならでは」 - 柳田威生blog

    民族ならでは分からぬ微妙な味であろう。(日下実男『海洋文明学入門』現代教養文庫 昭和51年) そうそう、「ならでは」は省略形だったのだ。「すべからく〜べし」の後半が廃れて、「すべて」の高級形と誤解されて生き残ったように、「ならでは〜ぬ」の後半も廃れてしまったのだ。

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/10/11
    これ気になっていた。けれど忘れていた。「なら・で・は」だったのか。「なら・では」だと思っていた。おかしいもんな。
  • 感想CM - 柳田威生blog

    http://questionbox.jp.msn.com/qa1469557.html まだ検索の仕方がわるいのか、これという名称を発見できないのだが、私が前に書いた「共感CM」のことである。 やはりみんな1990年代後半から気づきだしたようだ。私の印象もそうだった。だから1994年のものを見て、意外に思ったのである。 こんな感じである。左のロビン・ウィリアムズがわかるかな。 これの応用だと思うのだが、健康品のCMで、画面のすみに「利用者の感想です」とこっそりことわって、商品の利用者が製品をやたらに賛美しているのも、2000年代からみかけるようになった。 ふと思ったのは、ある映画作品を宣伝するさいに、別個の役者と演出家と撮影スタッフを用意して、品や住宅や金融商品のCMのようなドラマ仕立てのものをつくることはまずない、ということ。お笑い芸人の寸劇で映画を紹介したものなら、あったような気

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/10/02
    これは「効果効能」を謳ってはいけないというような、規制じゃなかったかしら。確認してないのでわからないが。あと歯磨き粉のCMでも一部カスみたいなのがついてるようになったなあ。 / 歯磨き粉って確かに躊躇しまし
  • 星新一の正しさ - 柳田威生blog

    『雑学コレクション』の228ページに、「糖類やプリンの研究により」とあって、おやと思い原文をみたら「the sugars and purines,」とある。あたりまえだがプディングのことではなく今や「プリン体」で有名なあのプリンなのだ。もちろん間違ってはいないのだが、そっけない正しさである。たしかに注釈を入れるとくどくなりそうである。「糖類などの化合物の研究」などとしても良かったろうが、星は自分の専門だったし、そのまま押し通したのだろう。

    星新一の正しさ - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2010/10/01
    そうか、そういう「専門家ゆえの手際の良さ」もあるのか。
  • ブキミな1980年代 - 柳田威生blog

    ドクタースランプのアニメにリメイク版があったのなんて知らなかった(1990年代)。 それにしても、今回はじめて気づいたのだが、キツネの面をかぶった少年は、あれ、つげ義春のパロディだったのだ。私がつげ作品を読み出したのは中学生の頃だから、パロディから先に触れていたのだなあ。 ブキミな1980年代といえば、まずは吾ひでおだが、2010年現在吾氏はその段階をとうに越えている。鳥山明も、もうブキミとはほど遠い境地にあるようだが、Dr.スランプのあの引用の洪水はまあブキミなものであった(オボッチャマンだってアトムみたいだ)。当時高橋源一郎が反応したのもよくわかる気がする。

    ブキミな1980年代 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2010/09/22
    "Dr.スランプのあの引用の洪水はまあブキミなものであった。当時高橋源一郎が反応したのもよくわかる気がする"
  • 「母子寮前」(『文学界』) - 柳田威生blog

    自分の育った家庭と、いろいろ対比しながら読んだ。 ちょっと驚いたのは、小谷野さんが交通事故に遭っていたことで、これは読んだおぼえがあるから、はじめて明かされたことではないはず。それで、なにに驚いたのかというと、種と仕掛け、ではないけれど、反禁煙ファシズムもクルマ嫌悪も反精神分析も、ちゃんと小谷野さんの実生活に根拠があることに私は驚いたのである。 医師がひな形にのっとった会話・説明しかしないので、患者の側がもどかしく感じるというのは、私にも覚えがある。「患者にどう接するべきなのか、マニュアルがあるのなら、まずそっちをこちらに読ませろよ」といいだしたくなるときもある。 要するに「透明化」と「役割分担」とは、必然的に齟齬をきたすのだが、社会がそれから目を背けようとしているのだ。移行期というか端境期がつづいている。医師がたいして尊敬をはらわれない職業となるまでには、さすがにまだしばらくの時間がかか

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    muimimuimi
    muimimuimi 2010/08/13
    ふと思ったけど、ナンシー関に「YouTubeで見たけど」って書かせたかったな。書かないか。
  • 日本の終戦と、丸谷のエホバと、五島勉のノストラダムス - 柳田威生blog

    そうするとノストラダムスの五島勉が丸谷と世代が近いということが気にかかる。急速に復興した日社会に対するむかつき・違和感が、五島をしてノストラダムスに向かわせたのではないか。それは戦争に負けたら日は滅ぶと脅かされた五島少年がいだいたかつての恐怖を、後の世代へと転嫁したものではなかったか。丸谷青年が、ニネベの売春婦ラメテが無残に殺される小説『エホバの顔を避けて』を執筆していた頃、五島青年もまた日の売春婦たちの存在に心を痛めていた(http://ja.wikipedia.org/wiki/五島勉#.E6.80.9D.E6.83.B3.E7.9A.84.E5.82.BE.E5.90.91)。

    日本の終戦と、丸谷のエホバと、五島勉のノストラダムス - 柳田威生blog
  • 『エホバの顔を避けて』 - 柳田威生blog

    やっと途中まで来た。これは凄い。なんというか、心理学をここまで実践しているのも、珍しいというか。『虚人たち』よりもよほど超虚構しているなあ。「超自我(エホバ)」を、ヨナ(「わたし」)がまったく批判しないさまを、他人である読者、つまり私が読むことで(読者はヨナの精神分析の場に突き出されるようなものだ)、作者は宗教批判をこえた宗教理解を読者に提示している。 ヨナの宣教に感心にも聞き入っているのかとヨナに思われた浮浪児が、実はそうじゃなくてただの白痴で熱心な手淫の最中だったから話しかける預言者の話などそっちのけだったのだということをヨナが卒然と悟って呆気にとられるシーンは、ちょっと凄い。

    『エホバの顔を避けて』 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2010/07/12
    『エホバの顔を避けて』を買って本棚に突っ込んであったのを思い出した