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  • 教育学によせる憎まれ口 - 柳田威生blog

    小谷野さんがブログで、教育学にたいする憎まれ口のようなものを書いているのをみて、ふと1980年代の橋治が似たようなことを書いていたのを思い出した(といってもそれを私が読んだのは1990年代後半のころのことだが)。出典は思い出せないが、たぶん、『蓮と刀』か、あるいはその前後の時期のものである。 さすがに橋は、小谷野さんのように子供の出来が悪いのは遺伝のせいとか、そういうことはいわなかったような気がするが、偽善と教育、というテーマはちょっと面白いような気がするのである。 自分が責任をもつべき人間にたいして、どこまで裏側を教えるべきかというのは、人が常に悩むテーマであろう。悪用されたらというのはともかく、ショックを受けて、動けなくなってしまったら役にたたない(自分の責任問題になる)からである。 私は今映画『プロメテウス』に魅了されている。フィルム版、デジタル2D版、デジタル3D版、それぞれを

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  • 事実らしいことに関する隠微な忍び笑い - 柳田威生blog

    http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20120813 「断片」と称するわりには、散文的にとりとめなく続く小谷野さんの手記である。「さらに三、四年前の話だが」などと書けばよさそうなところを「もうそれから三、四年以前のことだが」とするなど、どの時点を現在時制に決めるかといった、初歩の文章作法に混乱があって、はらはらさせられる。 こういう話題に客観をもちだして「牧」を怒らす「私」の主観が、しかし「断片」には客観的に書かれていないのである。小谷野さんは牧をこそ一人称の話者として設定した小説を書くべきだろう。あるいは牧に週刊誌を紹介したことをあれこれ思い悩む「私」の懊悩が書いてあれば、まだ読者である私は楽しめただろう。でなければ、面白そうな話題を提供して自分の無聊を慰めるかに思われた「おかしな子」が、案外自分を楽しませないのでこれを疎ましく思うに至った、飽き易くて共感

    事実らしいことに関する隠微な忍び笑い - 柳田威生blog
  • 隗よりはじめよ - 柳田威生blog

    kokadaさんが紹介していた佐倉統(さくらおさむ)のツイートには疑問がある。まじめにインフラ維持に従事してつつましく暮らす市井の人々(とまでは佐倉は言わないが)に対して坂龍一の傲慢は一体全体何事か(とまでは佐倉は言わないのだが)ということであるが、その対置はおかしいとおもう。 注目の的である人間がその名声を利用して政治発言をすることのなにが悪いのであろうか。坂龍一はある産業に従事する名もなきつつましやかな生活をいとなむ人々の立場を尊重することよりも、その産業が存続不可能になる可能性をも視野に入れて、その産業の社会における意味を考えようと言っているのである。「たかが電気」のたかがとはそういう意味である。 当のことかどうか調べようもないが、大阪府だか大阪市だかの職員の息子が、父親の給料がカットされたことによって、自分の大学進学の夢が断たれたことを2ちゃんねるで愚痴っていて、しかし可哀そ

    隗よりはじめよ - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/07/19
    "狭いケージに押し込められて、クワックワッ!! と喚いている" そう、意外なほど「狭い」。そして久しぶりで嬉しい。
  • あれこれ - 柳田威生blog

    東大生が不謹慎な冗談をツイッターに投稿して、東大準教授の人がこれを憂慮して制裁的な対応の可能性をツイッターで言及したら、さらに「外部の」ツイッターアカウント複数名から東大純教授の人の行き過ぎが議論される、という展開が、去年、震災後すぐの時期にあったらしい。 私はこの準教授の人を知らなくて、上記事例も携帯のツイッター画面で知ったので、準教授の人のことを検索することに思い至らなかった。で、いまPCでそれをして、背景事情が得られたわけである。得たのである。あはは。 不謹慎という状態、公共ということの状態、各種の性質についていつも考えてしまう。「場」というのは客観なのだが、自分がそこに入り込まないと、あんまり自分にとって役に立つように機能してくれない、など。 公共での各人というのはブラックボックスなのだなあということを最近とみに思う。私はフロイト心理学やユング心理学に、自分の心を知るためのホビーと

    あれこれ - 柳田威生blog
  • 不謹慎なあれこれ - 柳田威生blog

    林真須美冤罪説について。私はこの説を週刊誌で読んで、たしかにありそうな話だなあと思ったのだが、しかし、詐欺常習犯だったことを理由に利益のないこと(カレー鍋への砒素混入)をするはずない、とまでは言えないのではないかと最近は思うようになってきた。 人間、魔が射すということはあるものだ。もちろん(混入したことを証明する直接の)物証がないのだから、私はいまもって真須美無罪説だが、しかし、だからといって真犯人ではないとまでは思えないのだ…。 *  *  * 映画『先生を流産させる会』について。自説への自信に翳りがさしてきた映画擁護論者のブログを読んだ。(http://d.hatena.ne.jp/DieSixx/20120311/p1)。私はこのブログを読んでいて、示威行為のメカニズムの微妙さということを思った。 何度でも注意を喚起したいのだが、半田市の「先生を流産させる会」は、教師へのいやがらせと

    不謹慎なあれこれ - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/05/12
    "「自分が女性ではないことの不思議さについての表明」"
  • ゴジラ第一作 - 柳田威生blog

    ユングのを読むのに疲れたので気晴らしに見たのだが、通してみるのは初めてで、こんなに含蓄にとんだ作品だとは思わなかった。 もしも日人が最終兵器を発明したら、というスペキュレイティブ・フィクションだったのである。アメリカの水爆実験で誕生した怪獣が日を襲うのに、この映画の日政府はアメリカを非難しない(作はサンフランシスコ講和条約の2年後に公開された映画だ)。「事実は事実だ!」と叫んで、ゴジラの存在を国民にしらせるべきだと訴える婦人議員を菅井きんが演じる。 日の人民が、主権を得て、すべての事情を知ったうえで、納得して自死する。そういうファンタジーの象徴として、芹澤博士が描かれる。疎開について考えることを面倒くさがり、ダンスにふけるカップルが、まずまっさきにゴジラに殺されるのも、なにやら意味深である。宝田明と河内桃子のカップルの結婚への障害として平田昭彦(芹澤)が配されているのもいい。

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  • 楽器と服装 - 柳田威生blog

    映像の点滅が激しく目が疲れるので、視聴には注意してください。 ホルン奏者たちだけ正装なのがなんだか不釣合いな気がするが、案外日の純邦楽の人が封建時代の格好で音楽を奏でるのと同じで、楽器にはドレスコードが付随するものなのかもしれない。 私たち現代日人は西洋文化に対して奇妙な屈託を抱いているから、クラシック音楽をそれほど「古臭い」という枠組みから受容することはないのだが、西洋人たちは自分たちのかつての文化を、古いがゆえに忌避したり、逆に古いがゆえにかえってよりどころにしたりするのかもしれない。日人はクラシック音楽に不思議なニュートラルさの感覚を抱いている。

    楽器と服装 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/04/30
    "日本人はクラシック音楽に不思議なニュートラルさの感覚を抱いている"
  • 言葉はわからなくて当然、という考え方 - 柳田威生blog

    万葉集をはじめから順に読むと雑歌などあって、しかも短歌ではなく長歌や旋頭歌などの長いものは、こちらがそもそも古典の教養を欠き、さらには古語辞典も碌に引かずに読んでいるからというのもあるが、これらがよくわからない。「そのこころは」と言うときの心、つまり意図がよくわからない。 原文をにらんでいて、ふと気付いて、はっとしたのだが、これは話が逆で、わからないのが当たり前だったのだと思うことで、腑に落ちた。偉い人が、言葉を選んで表象することそのものが歌の眼目なのである。解釈は追ってゆっくりすればいい。 私は現代人なので、枕詞とか掛詞とか、古代人のくだらない風習だくらいに、つい考えてしまう。しかし、なにごとにもルールはあるものである。

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  • ユング - 柳田威生blog

    心は意識よりも広くて、意識では捉えられない心の部分が、無意識から夢や象徴のかたちをとって表れてくる、というのは、まあ、わかる。 ようするに、そういう不可知部分を形式化すると、言説は一挙にあやしくなる、ということなのだろうな。私はフロイトの自我構造論も、あまり信用してはいない。 個性化や錬金術など、ユングの言うことでもとくに眉唾におもわれる話題を、しかし、とりあえず読んでおくことはしておこうと思ったのである。 ユングは1961年に死んでいて、映画の残酷表現が急激な発達をむかえる直前に亡くなったとも言える。彼が『椿三十郎』や『ワイルドバンチ』、『ナイト・オブ・リビングデッド』、あるいはぐっと時代が下って『ブレインデッド』などを見たら、どんな感想をもらすのか、聞いてみたい気がする。 ちょっと面白い気がするのは、私たちが、過激な残酷表現に親しみつつも、80年代だったら宮崎勤の事件、現在だったら東日

    ユング - 柳田威生blog
  • 都市伝説 - 柳田威生blog

    テレビ番組の影響からか、都市伝説という言葉の意味内容に拡張が起こって、陰謀論や有名人についての誤伝まで都市伝説と呼ぶようになって、kokadaさんはこの傾向をかなり嫌悪しているようなのだが、小谷野さんまでがこの「都市伝説」を使っているのをみてちょっと驚いた。 そもそも英米人にとってアーバンレジェンドという言葉は、どのくらい普通なのかを知りたいところだ。ホラー映画の題名にされたこともあったが…。都市伝説という直訳は、どうもこなれなくて、私なんかは「現代のこわい話」「現代のあやしい話」などでいいじゃないかと思うのだが。消えたヒッチハイカーの話自体は、アーバンレジェンドというよりはモーターライズレジェンドとでも呼ぶべきか。なんだよ都市伝説って、じゃあ田舎の人は都市伝説を口にしないわけ? とか私なんかは思っちゃう。

    都市伝説 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/04/14
    あとは「放送事故」か。/ 修正。自分の見たものを事故にしたがる。
  • 普遍についてのある種の錯誤・メモ - 柳田威生blog

    数秘術まがいの文芸評論は、小説をなにか「普遍」という氷山の、海面につきでた一角のように思っているのではないか。 そもそも「影響を受ける」というのは、先行するクリエイター(この語は皮肉である)の要素を、馬鹿正直に引き継ぐことであるのか。 数秘術まがいの文芸評論の書き手、読み手は、感動してしまった自分を韜晦したいだけなのではないか。そのために数秘術まがいのことに走るのは、じつはいたって幼稚なことなのだが…。 ある種の健全さからの逃避が、「文化」を構築している。文化外の人間からみたら、その「数秘術」は笑うべき茶番である。 なぜ素直に「感動した」と言わずに、「この対象には受け手を感動させる特質が備わっている」などと言いたがるのか。

    普遍についてのある種の錯誤・メモ - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/04/13
    "なぜ素直に「感動した」と言わずに、「この対象には受け手を感動させる特質が備わっている」などと言いたがるのか"
  • 普遍についてのある種の錯誤 - 柳田威生blog

    DVDで繰り返し見ていたら、だんだん『インセプション』が好きになってきた。 劇場で観たときの理解には、間違いもあったようで、この作品はやはり、最初は日語吹き替えで見たほうがいいのではないかと思った。DVDには、ポルトガル語吹き替えの音声も収録されており、BGVとしてこのバージョンを楽しんでいる。 この映画の前提として、夢のことを、自由に創造を満喫できる空間として扱っていて、これは日人にはすこしなじみの薄い感覚なのではないかな、と思った。 日人は、夢を、与えられるもの、別世界への入り口と解釈することが多いのではないか。夢を、自分が日常叶えられないことの埋め合わせとして創造作業を行う空間だとは、日人はあまり考えないような気がするのである。 天地創造の神話が、ユダヤ教・キリスト教と記紀神話でまるで違うのをみても、そう思う。日神話の神々が、「光あれ」などというのは考えられない。アマテラス

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  • 数秘術まがいの文芸評論 - 柳田威生blog

    小谷野さんのブログで、こんどはじめて米光一成や川田宇一郎の名前を知った。 小谷野さんの短評をみると、どうも数字の辻褄あわせという名の知的操作に著者が没頭した「謎」であるらしい。 私はこの手の書き物にかなり強い嫌悪感を持っていて、これはもしかしたら精神分析にたいして小谷野さんが感じる嫌悪感に近しいものなのではないかと思っている。 たしかに精神分析も、ホビーとして楽しむには十分面白いけれども、その理論を応用して文芸作品を解いても、――とくに、作品の秘密を精神分析で暴けるかのように文芸作品に対するのは、愚の骨頂だと思う。 岸田秀もデビューのころは、得々として太宰や宮沢賢治や三島などの作品から著者の精神分析を披露していたが、なにか感じるところがあったらしく、早々とそういうことはやめている。 自分の感じる心を開放することを恐れる、ある種の現代的心性が、人をこの種の文芸評論に走らせると思うのである。

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  • 自殺についての少数意見 - 柳田威生blog

    ふと思い出した。むかし草野仁がワイドショーの司会をしていたことがあって、どんな行きがかりでそうなったのか、いまの私は忘れてしまっているが、スタジオの面々が自殺について考える流れとなって、人間生きてりゃつらくて自殺したくなるときがあるという意味のことを草野が言って、コメンテーターがそれに同意する、という一幕を見たことがあった。 そのとき、私は、自分にそんな感情の持ち合わせが欠片もないことに気がついて、ブラウン管のむこうの草野にたいして申し訳ないような気持ちになったのを、かすかに覚えている。 私は自殺したいと思ったことが一瞬もないのである。そういえば、大怪我の経験はあるけれども、大病の経験がない、というのは大きいかもしれない。自殺したいと思ったこともないし、嫌な人間を殺したいと思ったこともない。嫌な人間は、自分と無関係に、勝手に頓死してくれないかな、とはよく思うのだが。 桶川ストーカー殺人事件

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  • 軽蔑の報復 - 柳田威生blog

    竹内結子が主演する映画『はやぶさHAYABUSA』は、探査機が自ら話し出すズッコケ演出が施されている、というデマが流行したらしい。 わたしは『はやぶさ』劇場上映期間は、あまりはやぶさ物の映画に関心がなく、上記の話を人から聞いたときも、へえそうなんだ、と思っただけだった。 いま現在の私は『はやぶさ』も『はやぶさ 遥かなる帰還』も『おかえり、はやぶさ』も鑑賞済みの状態である。 このデマのことをふり返って思うのは、『はやぶさ』では、オタッキーな大学院生・研究者のディティールトークが、珍奇な、乗り越えられるべきものとして描かれていたことである。登場時は挙動不審な奇人だった水沢恵(竹内結子)は、物語がすすむにしたがって「ふつうの話し方」を具えた魅力的な学者に成長していく。事実とその伝え方の関わり、違い、というのは、明らかにこの映画のテーマのひとつである。 デマをふりまいた人々の心の奥底には、自分たち

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  • 吉本隆明 - 柳田威生blog

    これもsheepsong55さんの文章に触発されて書くものである。 吉隆明に、詩人、思想家、批評家、時論家の相貌がそれぞれあったとして、私が唯一親しんだ のは時論家としてのそれだった。また、私は視覚的文化全盛期に生まれ育った人間だから、吉については 「電波少年」での洗面器パフォーマンスや、小林よしのりに揶揄的に描かれたマンガのモデルとしての印象が さらに強い。まだ高校生のころ、私は筒井康隆の読者で、彼の断筆宣言を浅田彰が批判して、それをさらに 吉が批判するといったことがあって、池袋のリブロで吉の文章が載っている雑誌を求めたことを 覚えている。昨日、吉について人と話をしていて、私はつい吉のことを老いて忘れかけられた存在 として言及したのだが、話相手によると、糸井重里が自分のサイトでさかんに吉をゲストに 迎えていたそうで、いまでも一定の認知はあるのではないろうかとのことだった。

    吉本隆明 - 柳田威生blog
    muimimuimi
    muimimuimi 2012/03/18
    "死体でかんかんのうを踊る糸井の図" "吉本に心酔したのちに吉本に反発する一群の人々というのがいて、この人たちがだいたい男性だというのが、私にはどこか示唆的" うむ。
  • 日記 - 柳田威生blog

    気分がすぐれず、ベッドのなかでぐずぐずしていた。 パソコンにダウンロードしていた『遥かなる大地へ』を、寝たままで見る。 アイルランドの貧農だったトム・クルーズが、祖国を脱出してアメリカの土地を得るために 奮闘する物語である。この映画は、高校生のころ社会科の授業の一環かなにかで新宿東映の 傾斜のきついスクリーンで見せられた覚えがある。クルーズが旅の途中で初志を見失ってその生活 が荒んでいくくだりを懐かしく思い出した。映画はこのくらい奥行きがあってのんびりした もののほうが有りがたい。死んだと思われた人が生き返るシーンがあるのだが、 クレーンにのったカメラが上昇したり下降したりして、魂の見た目を表現する。そういえばあの頃は 臨死体験とかキューブラーロスとかが流行していたななどと思った。 仕事があるので気力をふるって起き出す。髭を剃る気もおこらない。初期の病なんだと思う。 いだ(ふさいだ)気

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  • 震災記 - 柳田威生blog

    sheepsong55さんが震災の日のことを回想していて、それにつられて自分もあの頃のことを思い出した。 震災の数ヶ月まえに、仕事場が渋谷に引っ越してきて、やっと周囲の雰囲気に 慣れてきたころだった。建物が出来て数年の免震設計で、揺れの最中もあまり怖くなかったことを 今でも覚えている。余震がひどくて、その日の予定をキャンセルすることに決めたのは、3時半くらい だったろうか。仕事場はネット環境は完備されていたけれど、テレビやラジオの用意は全然していなくて、まだ当時は地上波がアナログだったから 同軸ケーブルとプレート型のアンテナを、倉庫から出してきて、もっぱらビデオ用となっていたテレビに接続 したものだった。いまでも東日大震災で思い出すのは、ブラウン管に映る受信状態の悪いニュースの映像である。 sheepsong55さんはラジコを事務所の仲間に教えたそうだけれど、私がラジコの存在を教わったの

    震災記 - 柳田威生blog
  • 町山智浩対上杉隆 - 柳田威生blog

    なかなか面白かった。 公金横領だか着服だかについて、公人のほうに潔白であることの立証責任があるとは個人的には思わないが、法律上どうなのかは知らない。 ソース記述の画面が、映画の『逆転裁判』のCGみたいに、バババと画面に表示されたら愉快であったが、さすがにそういうわけにはいかない。 上杉隆が、情報の出典を先にしめさずに煩瑣な背景説明を滔々と冗漫に述べるのには困った。また、実際に人事や編成を差配する人物を蚊帳の外においたまま、取引先である町山と上杉が取引相手であるTBSの話をしたのは、これはちょっと面白い。 有料のメールマガジンで、他所からよせられた質問にこたえることの是非は、上杉の言い分にも一理あると思った。公開でやるべきというのはマナーにとどまっているからだ。義務ではない。なぜや雑誌で有料で主張するのはよくて、有料のメルマガでそれをするのはいかがわしいことになるのか、というのは、もっと言

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  • テリー・イーグルトン『宗教とは何か』 - 柳田威生blog

    図書館にあったので読み始めている。とりあえず半分まで読んだ。それほど面白いわけではないが、自分の考えをまとめる役には立つ。宗教は、内省(つまり自分の思いや考えを吟味し、まとめる行いのことだ)の機会を生活に組み込んでおく機能を担うものだと私は思っている。 とは特に関係のないことがいくつか思い浮かんだ。流行というのは、時間をひきのばした「祭」のことなのではないか、というのがそのひとつ。祭、流行、日常、と時間が延びていく。日常以上の長さ、スパンをもつ時間を、人間は通常体験できない。祭が1日から数週間、流行が数週間から数年、日常が数年以上の時間をあつかう。 あまり好きな映画ではないが、『ミスティック・リバー』の登場人物たちは、犯罪を犯す経験を経て日常に復帰し、地域社会の行事に顔を出すことで、日常の時間というものの発するクロックを受信して生きているのだ。経験の衝撃度が強すぎたティム・ロビンス演じる

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