南朝(大覚寺統)も北朝(持明院統)も88代・後嵯峨天皇とその中宮、西園寺姞子(さいおんじきつこ)の子孫たちです。 そこから後嵯峨天皇の第三皇子、後深草天皇(89代)の家系を「持明院統」と呼び 後嵯峨天皇の第四皇子、亀山天皇(90代)の家系を「大覚寺統」と呼びます。 後に後醍醐天皇(大覚寺統)が足利尊氏と対立し、尊氏が光厳上皇(持明院統)と手を組み光明天皇を擁立します。それから後醍醐天皇が対立するように吉野山へ逃亡し、自らが正統な天皇と名乗ります。ここから前者は「北朝」、後者は「南朝」と呼ばれます。お互いから天皇を擁立し「正当な天皇」を主張し続け対立し続けました。 後に足利義満の仲介により南朝の後亀山天皇(南朝4代)が折れ、自らが北朝の後小松天皇を正式な天皇とすることを認めました。これにより北朝の後小松天皇(北朝6代目)が統一朝廷の第100代目天皇となりました。しかしながら後小松天皇は両者の