^ 小田原城の惣構について、西股総生は、 全体として集落の囲い込みよりも防御上の合理性に基づいて設定されたと評価している。板橋の宿(中世東海道の宿)が惣構のラインからは除外される一方、城の東方は惣構を山王川のラインまでに設定しているが、山王川と城中心部との間にひろがる平野部に集落が密集しているとは考えにいことによる[1]。 ^ 「御土居」は、土塁とともに堀が構築されていた。土塁と堀の幅は各々約20mであった[2]。 ^ 山科本願寺は外郭線を三重にめぐらし、本願寺を核に求心的な構造をなしていた[5]。 ^ 小岩嶽城(現・長野県安曇野市にある山城)には山麓部を囲繞する空堀(幅約15m・深さ約7m)がある[14]。 ^ 西股2003、27-29頁 ^ 中村2003、316頁 ^ 1979年12月指定。『図説 中世城郭事典 三』p.36 ^ 『夢路を追って~官兵衛と村重~摂津⇔姫路』神戸新聞 20