1942年(昭和17年)、大分県大分市生まれ。大分県立水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)を卒業後、地元の大手水産会社に就職。その後、大阪を経て名古屋に出て、1962年(昭和37年)に三代目山口組系鈴木組内弘田組に入った。中京地区の抗争では武闘派として活動し、弘田組最高幹部を務めた。後に自らの組織として司興業を旗揚げしている。 昭和40年代頃には、愛知県下に山口組系以外にも多くの暴力団組織があり、弘田組は山口組の直参組織ではあったが一地方組織にすぎず、他組織と衝突を繰り返しながら地盤を築いていった。弘田組内で副組長や若頭を歴任し抗争でも陣頭指揮を執っていたのが司であった。 1981年(昭和56年)7月23日、三代目山口組組長・田岡一雄が死去する。弘田組組長・弘田武志は、田岡の後継者とされる山本健一と関係が近く、山本が四代目を継承すれば山口組に参加するはずだったが、山本も1982年(
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