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currencyとtokugawa-shogunateに関するnabinnoのブックマーク (4)

  • 江戸時代の三貨制度 - Wikipedia

    江戸時代の三貨制度(えどじだいのさんかせいど、Tokugawa coinage)とは、江戸時代の日において金(小判、一分判)、銀(丁銀、豆板銀)および銭(寛永通寳)という基通貨が併行流通した貨幣制度のことである。 これらの金貨、銀貨および銭貨の間には幕府の触書による御定相場も存在したが、実態は互いに変動相場で取引されるというものであり、両替商という金融業が発達する礎を築いた。金・銀・銭とは別に、藩札などの紙幣も流通していたが、日全国で通用する紙幣はなかった。 幕府は公式に「三貨制度」として触書を出したわけではないが、「三貨」という用語は文化12年(1815年)に両替屋を営んでいた草間直方が貨幣学研究の集大成として刊行した『三貨図彙』に見られる[1]。 なお、「江戸時代の三貨制度」と呼ばれているものの、江戸時代の期間は徳川家康が征夷大将軍に任命されて幕府を樹立した慶長8年(1603年)

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  • 金座 - Wikipedia

    金座址、京都市中京区 金座(きんざ)とは、江戸幕府において金貨鋳造あるいは鑑定・検印を行った場所あるいは組織。 概要[編集] 文禄4年(1595年)、徳川家康が京都の金匠後藤庄三郎光次に命じ江戸で小判を鋳造させた時に始まる。江戸幕府成立後は留守居、ついで勘定奉行の支配下に置かれて、江戸石町に役宅が設置された。 金座成立以後、後藤家は御金改役(ごきんあらためやく)として石町の役宅において金貨の鑑定と検印のみを行い、実際の鋳造は小判師(こばんし)などと呼ばれる職人達が行っていた。小判師達は小判座(こばんざ)と総称され、後藤宗家が居住していた石町の金座役宅の周辺に施設を構えてその支配下に置かれていた。このため、御金改役を世襲した後藤宗家を小判座(小判師職人)の元締という意味を込めて特に大判座(おおばんざ)とも呼んだ。だが、管理の厳格化と小判師の分散化を防止するために元禄11年(1698年)

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  • 小判 - Wikipedia

    この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(JIS X 0212(補助漢字))が含まれています(詳細)。 小判(こばん)とは、江戸時代に流通した金貨の一種である。 金座で用いられた公式な呼称は小判であり『三貨図彙』では「小判」と明記されているが、『金銀図録』および『大日貨幣史』などの古銭書には小判金(こばんきん)という名称で収録されており、貨幣収集界では小判金の名称が広く用いられている。当時の文書には単に金と記されていることが多く、「金百両」などと表記された。 計数貨幣であるが量目(質量)および金品位が一定に定められており、金含有量が額面を決める秤量貨幣の発展形である。 現代では、共同体が定めた公式な貨幣ではなく、それを模した記念品やメダルを「小判」ということもある。また、クック諸島は法定通貨として有効な小判を模した金貨・銀貨を発行しており代理店が「小判」として販売し

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  • 元禄小判 - Wikipedia

    この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(JIS X 0212(補助漢字))が含まれています(詳細)。 元禄小判 元禄小判(げんろくこばん)は、元禄8年9月10日(1695年10月17日)から通用開始された一両としての額面を持つ小判である。江戸時代の金貨としては慶長小判に次ぐものである。 また元禄小判、元禄一分判および元禄二朱判を総称して元禄金(げんろくきん)あるいは元字金(げんじきん/げんのじきん)と呼ぶ。同時に吹替えが行われた元禄銀と合わせて元禄金銀(げんろくきんぎん)と呼ぶ。 概要[編集] 表面には鏨(たがね)による茣蓙目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている[1]。「元」字の最後の跳ねが長い長元と、短い短元が存在し、短元を

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