蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという[4][5]。 ただし、蒲生氏などの近江関係の系図には沢田源内や椿井政隆による偽書・偽文書の影響を受けているものもあって同時代史料との比較検討を必要とする、という見解もあり、氏郷の祖先で確実に動向が追えるのは15世紀初めの蒲生秀兼以降とされる[6]。 近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる[7]。幼名は鶴千代と名付けられた。 永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した[8]。鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)[8]。 鶴千代は岐阜の瑞竜寺の禅僧・南化玄興に師事し
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