騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説[1][2][3][4]。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう[4]。 東洋史学者の江上波夫が、(1) 古墳文化の変容、(2) 『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承の内容、および、(3) 4世紀から5世紀にかけての東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに (4) 騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に加えて唱えた、日本国家の起源に関する仮説である[4][5]。 この説は戦後の日本古代史学界に大きな波紋を呼んだ[4]。一般の人々や一部のマスメディアなどでは支持を集めたが[6]、学界からは多くの疑問が出され、そ