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kugyoに関するnabinnoのブックマーク (2)

  • 公卿 - Wikipedia

    公卿(くぎょう)は日の律令の規定に基づく太政官の高官で、国政を担う最高の職位をさす。 すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官を指す(総称して議政官という)。 平安時代に、「公」は大臣、「卿」は参議または三位以上の廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、京都御所に仕える上級廷臣を指した[1]。 公卿は、国政の公務に準ずる職位として、政所・荘園を持つことが許された。 日の律令制は中国の律令制度を手として作られた。中国の制度では高官の総称として三公九卿という呼び方があった。これに倣い、太政大臣、左大臣、右大臣を「公」と呼び、三位以上の貴人や参議の官にある者を「卿」と呼んだため、両者を総合して公卿と呼ばれるようになった。公卿の地位に昇った者は、年毎に作成される『公卿補任』に記載された。三位以上は貴といい、五位以上

  • 橘氏 - Wikipedia

    県犬養三千代は天武朝から命婦として仕え、文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め敏達天皇の後裔であった美努王[注釈 1]のとなり、葛城王・佐為王・牟漏女王を生んだ[5]。持統天皇8年(694年)に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された[6][7]。三千代は天平5年(733年)に没したが、『続日紀』には「内命婦正三位県犬養橘宿禰」と記されている[8]。 天平8年(736年)11月11日に三千代の子であった参議左大弁葛城王と従四位上佐為王が、三千代の跡目を継ぐとして橘宿禰の氏姓継承と臣籍降下を朝廷へ申請し、同月17日

    橘氏 - Wikipedia
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