タグ

manchuria-britain-disputesに関するnabinnoのブックマーク (5)

  • 虎門寨追加条約 - Wikipedia

    虎門寨追加条約(こもんさいついかじょうやく)は、アヘン戦争後の南京条約に次いで締結されたイギリスおよび清国の2国間条約。単に虎門条約ともいう。 南京条約の不明確な条項に対する細目を規定した追加条約で、関税自主権の喪失、領事裁判権および片務的最恵国待遇などを認めた不平等条約。 南京条約において「香港の割譲」と「五港の開港」を最優先条項に掲げた英国は、そこから洩れた特権に関してその後も中国側と書翰の往復によって交渉を続けた結果、初代香港総督ポッティンジャーと両江総督耆英の両代表によって、まず1843年6月に香港で五港通商章程(中国語版)が協定され、続いて同年10月8日に虎門寨にて虎門寨追加条約が署名された。 内容[ソースを編集] この条約は16カ条および英国小型船に関する付属条項1カ条から成り、付属の五港通商章程ともども南京条約と一体をなすものとされた。 主な協定条項を摘録する。 両国の全権が

  • 南京条約 - Wikipedia

    南京条約(ナンキンじょうやく)とは、1842年にアヘン戦争(第一次アヘン戦争)を終結させるため、清とイギリスの間で結ばれた講和条約。江寧条約(こうねいじょうやく)ともいう[1]。 概要[編集] 1842年8月29日(道光22年7月24日)、イギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で調印された条約である[2]。 イギリス側から貿易監督官ヘンリー・ポッティンジャー[2]、清国側から欽差大臣便宜行事の耆英、両江総督部堂の牛鑑、江蘇巡撫院の程矞采、乍浦副都統紅帯子の伊里布が調印した[2]。 条約の内容[編集] 香港島のイギリスへの割譲(舟山と厦門は賠償金の支払い後に返還)[2] イギリス人の広州、厦門、福州、寧波、上海の居住権の承認とこれら5項の開港及びイギリス領事の居住[2] 公行の廃止[2] 賠償金2,100万ドルの支払い(うち最初の600万ドルの支払いまで南京封鎖)[2] なお、最初の賠償金60

    南京条約 - Wikipedia
  • アヘン戦争 - Wikipedia

    アヘン戦争(アヘンせんそう、中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり[2]、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。 戦争に至った経緯[編集] もともと清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった(広東貿易制度)[3]。 一方ヨーロッパ

    アヘン戦争 - Wikipedia
  • アロー戦争 - Wikipedia

    アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である[1][2]。戦争の理由の一つであった、中国人による多くのイギリス人との衝突のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、アヘン戦争に続きアヘンの密貿易に関連して起きた二度目の戦争であることから第二次アヘン戦争(Second Opium War)とも呼ばれる[1]。この戦争で清は再び敗北し、不平等条約である天津条約や北京条約を締結させられ、アヘン輸入の合法化を強いられることになった。 1839年9月に武力行使が始まったアヘン戦争の講和条約として、1842年に締結された南京条約の規定により、英国は清国に対し、従来の広東(広州)に加えて、厦門、福州、寧波、上海の計5港を

    アロー戦争 - Wikipedia
  • 1