デンパサールのガジャマダ通り(2005年) 1928年(昭和3年)に再婚(前妻は過労死)。1930年(昭和5年)にコーヒー園の経営をあきらめ、バリ島へ移住。三浦一家はデンパサールに居を構え、ガジャマダ通りの一角にて自転車の修理業を始める(この頃のバリ島には、三浦を含め3家族しか日本人は定住していなかった[2])。やがて、南洋浪人2人を雇い入れ、ブレレン、クルンクンに支店を開業。バリ人からは、「トコ・スペダ・トワン・ジャパング」(自転車屋の日本の旦那)として慕われた。 太平洋戦争の開戦前後、三浦は日本に帰国。しかし、1942年(昭和17年)に召集を受け、同年2月、陸軍第48師団今村隊の随員として、再びバリ島サヌール海岸に上陸した(バリ島沖海戦)。三浦は、現地の王族たちを集めて、太平洋戦争の意義を通訳し、また自らも演説するなど宣撫工作に従事した。この頃の三浦は、太平洋戦争の大義を信じており、次
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