高畑勲、宮崎駿両監督作品を1970年代から晩年までアニメーターとして支え続けた。 1995年の映画『耳をすませば』で初めて劇場用長編アニメーションの監督を務め、次代の日本のアニメーション、またスタジオジブリを担う作家として、演出面でも将来を嘱望されていたが、47歳で急死した[2]。 メリハリのあるアクションから細やかな生活芝居まで手がける高い技術と、仕事に妥協を許さない姿勢、人々を見つめる温かな眼差しは、今なお後進のアニメーターに影響を与え続けている[3][4]。 1950年3月31日、新潟県五泉市に生まれる[1]。 1965年4月、新潟県立村松高等学校に入学、美術部に所属する。先輩には漫画家の柳沢きみおがいた。 1968年3月、高校を卒業。同年4月、新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学、熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける[5]。東映長編に憧れ東映動画志望だったが入れてもらえ