一般に「血盟団事件」と呼ばれているが、正式名称を「血盟団」とした集団が存在したわけではなく、厳密にいえば俗称である。 1930年末に、当時井上日召が利用しようと考えて関係を深めていた日本国民党が開いた忘年会の席での党委員長寺田稲次郎による発言が発端である[1]。 これ以後、井上の周囲に集まったグループを指して、一部の国家主義者たちがひそかに「血盟団」と呼ぶようになった[1]。しかし、井上たちが自称したものでも正式名称でもなく、彼らは自分達に名前を付けることを拒み続けた[1]。 また、事件の新聞報道では当初「血盟五人組」と呼ばれ、その後は「血盟団暗殺団」「血盟団」が使われた[2]。 「血盟団事件」という名称は担当検事だった木内曾益による命名である[3]。井上が後年出版した獄中手記『梅乃実』の中には「吾々は団体として何の名目も付けて居なかったが、官憲の方で事件発生後勝手に命名した」と書かれてい