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warとsiege-of-dongnaeに関するnabinnoのブックマーク (1)

  • 東萊城の戦い - Wikipedia

    東萊城の戦い(とうらいじょうのたたかい、朝鮮読み:トンネ)は、文禄元年(1592年)4月14日から15日に行われた、文禄・慶長の役の初期の戦闘の一つである。 釜山鎮の戦いで釜山と周辺の砦を陥落させた後、日軍は沿岸部の橋頭堡を確保する必要があったが、釜山の内陸、北方数kmの位置には都護府である東萊城という城塞があった。これは山の地形を利用した山城で、北の漢城へ通じる主要道を押さえる要地にあった。それで日軍はまずここに向かった。 4月13日の日軍襲来の報に接して、東萊府使の宋象賢は城邑の軍民を急いで集めると共に、梁山郡守趙英珪らに周辺軍民の集結を命じた[3]。 慶尚左道の指揮官である慶尚左兵使(兵馬節度使)李玨は、北の兵営城(蔚山)から東萊城に入城したが、釜山鎮陥落を知って顔面蒼白となり、逃げだそうとしたので、宋象賢は押し留めた。しかし李玨は「大将は自らの生命を危険にさらす訳にはいかない

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