1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蔣介石支持を明らかにした[1]。 満洲事変後、東北の地盤を失った張学良は蔣介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共[注釈 1]副総司令に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが[1]、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失った[2]。1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていた[1][2]。このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産党軍との接触を始めた[3]