葛洪抱朴子曰呉景帝時、戍將於廣陵掘諸冢、取版以治城、所壞甚多。復發一大冢、内有重閣、戶扇皆樞轉可開閉、四周為徼道通車、其高可以乘馬。又鑄銅為人數十枚、長五尺、皆大冠朱衣、執劍列侍靈座、皆刻銅人背後石壁、言殿中將軍、或言侍郎・常侍。似公主之冢。破其棺、棺中有人、髮已班白、衣冠鮮明,面體如生人。棺中雲母厚尺許、以白玉璧三十枚藉尸。兵人輩共舉出死人、以倚冢壁。有一玉長一尺許、形似冬瓜、從死人懷中透出墮地。兩耳及鼻孔中、皆有黄金如棗許大、此則骸骨有假物而不朽之效也。 (『三国志』巻四十八、孫休伝注引『抱朴子』) 呉の孫休の時代、広陵で城壁の材料にするため墓を破壊して資材を取っていくということが行われていたが、ある時物凄い規模の墓を掘り当ててしまったという事件。 おそらく前漢代の広陵王やその親族クラスの墓だろう。 世語曰、黄初末、呉人發長沙王呉芮冢、以其塼於臨湘為孫堅立廟。芮容貌如生、衣服不朽。後豫